網干の郷愁風景

兵庫県姫路市<港町> 地図
 
町並度 6 非俗化度 8 −都市郊外に静かに残る播磨の港町−
 

 


 網干は姫路市の南西部、揖保川の下流端にある。ここにある魚吹八幡神社の由来書によると、放生会の式日に殺生を禁じ、氏子の漁師は網を干して社参したことで網干祭と呼ばれたことが地名の起りといわれている。
網干の町並 旧丸亀・龍野藩領境界の石橋(境橋)が残る




新在家の町並


 ここは中世より海運の中心として栄えていた。室町期の文安2年(1445)、兵庫北関を通過した網干船籍の船は62隻と、播磨国内では室(御津町室津)に次いで多かった。江戸期に入ると、揖保川川運により龍野の醤油、周辺の農産物等が集積し、海路大坂へと運ばれた。播磨有数の港町として発展を続けていった。
 港町の中心は網干川を挟んだ三角洲地帯であった。町は興浜地区と新在家地区に分けられており、西半分の興浜を統治していた龍野藩主・京極家は万治元年(1658)より讃岐丸亀藩に移封され、この地が飛地として残された。このため京極家は陣屋を作り、代官、奉行を置いて以後の新在家を治め、幕末まで丸亀藩領であった。東側の新在家地区は一時幕府領であったが、寛永9(1632)からは龍野藩領で、当時両地区の境界には小川が流れ、一日2回通行を許可される境橋という小さな石橋が唯一の往来手段だったという。現在は道路拡幅等が行われ、小川は無くなったが、橋は道端に移設され名残を留めていた。
 陣屋は取壊されているが門が復元されて歴史資料館となっており、周囲は小公園として整備されている。この陣屋跡の周辺には本瓦葺の旧い家屋や、漆喰に塗り込められた土蔵などが集中し町並らしいところである。明治初年に建立された木造三階建てで和洋折衷の山本家は旧網干町長を務めた邸宅。この付近には車一台やっとの小路も多く存在し、港町漁師町の趣が濃く感じられた。
 新在家地区は一部が商店街となってしまっているが、虫籠窓が残る旧家が所々に残っていた。町並の北側は網干川に接し、現在は改修されてコンクリートで固められている。しかしこの辺りが龍野醤油の積出し港のあったところで、現在でも蔵の一部が残っていた。
 




新在家の町並 興浜の町並




興浜の町並
訪問日:2003.01.02
2014.04.06再取材
TOP 町並INDEX


旧ページ