相生の郷愁風景

兵庫県相生市<漁村> 地図
 
町並度 5 非俗化度 8
−企業城下町として栄える町もかつては専業的な漁村集落であった−
 

 



 播磨灘から深く湾入する相生湾の奥に開ける相生の市街地。現在の町の中心は相生駅の南側で、主には石川島播磨重工業の企業城下町としての発展によるものである。その中にあってかつての相生村の中心部には、漁村らしい古い町並が残っていた。
 それにしても相生市街から外れたところに位置しているものである。現在の市名から駅前付近と思いがちであるが、湾の奥ではなく中間部の小さな入江に固まる集落であり、市街中心からすると完全に属村のようなところである。しかしここだけは字相生を名乗り、町の本来の姿ともいえる場所である。
 小さな入江も今は埋立てられ駐車場などとなっている。しかしそこから周囲を見渡すと、漁港の集落らしい佇まいが三方に展開している。この位置にかつて漁船がひしめいていたに違いない。
 
 
相生二丁目の町並(国道250号線沿い)


相生三丁目の町並




相生三丁目の町並 相生五丁目の町並
 

 町はこの入江と、そこに流れ込む小さな川によってわずかに形成された平地に展開する。かつての入江を回り込んでいた国道250号線から町中に入ると、そこは車の通行が困難な路地を中心とした展開で、漁村らしい木造の家屋、一部に平入りの町家建築、また或る所には大柄な屋敷風の建物が鎮座していたりして古い町であることが即座に感じられる。また川沿いには保存状態のよい木造の建物が連なっている風景があり、そこから路地に入ると二階に手摺の付いたような建物も眼にしたことから、歓楽地として賑やかな一角だったのか。このように町を歩いていると、一個の独立した町として古い歴史を刻んできたであろうことを感じ取ることができる。
 船の数は那波村で7隻の帆船があっただけなのに対し、相生村では70隻の漁船と、ここが漁業で栄えた村であったことがわかる(17世紀後半の文書による)。漁法は多くが近海漁業で、また湾内でイナと呼ばれた鰡(ボラ)の増殖のため、鰡座を設けて禁漁区を設けるなど漁獲高の確保に努めたという記録が残っている。
 明治時代、鉄道の開通に伴い当時の村長は、「この寒村を西の神戸にする」と叫び、同40年に造船所を設立した。折しも第二次大戦にかけての需要の高揚する時期とも重なって造船業は好景気に恵まれ、戦後になって石川島播磨重工業相生工場に発展した。工場は相生湾の西部を埋立て現在も大規模に操業しているが、東岸に位置していた旧相生村は大きく開発されることなく今に至っており、漁村時代の面影を色濃く残していた。
 





相生三丁目の町並
相生二丁目の町並


訪問日:2007.02.11 TOP 町並INDEX