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藍住の町並 もと藍師の堂々とした屋敷が見られる | |
吉野川の流域は江戸期から明治にかけて藍の生産が盛んで、北方五郡と呼ばれた中下流域一帯を中心に藍作地域となった。藩の政策として奨励されるようになった寛永期(17世紀前半)にはじまり、江戸中期には大部分の土地が藍畑であったといい、藩内の一大基幹産業に発展した。 農民の一部は田畑を買い取って地主化し、農民から藍の葉を買い取ってすくもと呼ばれる染料や藍玉を製造、大坂や江戸などに販売するものも現れた。それらは藍師と呼ばれ、土蔵や広い敷地を有する豪農となった。 明治後期になると、藍の栽培に必要な魚肥の高騰、インドなど海外産の藍の移入などで苦境に追い込まれた。さらに化学染料の輸入・発達により藍作の衰退は決定的となった。昭和のはじめには多くが養蚕に転換され藍畑は桑畑となった。 かつての藍作中心地帯には藍の付く地名も見られ、吉野川を挟んで左岸側の藍住、右岸側の藍畑がその代表といえる。いずれももと藍師の見応えのある屋敷風景が残り、特徴ある風景を残しており貴重である。中でも藍畑の田中家は重要文化財に指定されており、吉野川の氾濫源にあることから石垣の上に土盛りをした上に主屋をはじめ11棟もの建屋を有する。また、武知家には藍寝床という葉藍を寝かせて発酵させ、すくもを製造する建物が残っているのも特筆される。 いずれも徳島市の郊外地に位置しており、周囲には複合型商業施設などの定型的風景も見られるが、この大きな個性を示す屋敷群を大切に守ってほしいものである。 |
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藍畑の重文・田中家 | |
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藍寝床(左)の残る武知家 |
訪問日:2017.12.02・03 | TOP | 町並INDEX |
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