赤泊の郷愁風景

新潟県赤泊村<港町> 地図 <佐渡市>
 町並度 7 非俗化度 7  −本土からの最短距離航路の港町−






赤泊の町並を象徴する望楼のある風景


 赤泊は本土からの旅客船が就航している港のひとつで、寺泊との間を高速船が往来している。
 本土からの距離が最も近く、古くは律令制下に佐渡国の駅の一つ・三川駅が置かれていたと推定され、交通上の要地であったようだ。
 江戸時代は幕府領で、佐渡奉行所は島の重要産業であった金・銀山施設の整備と並び主要な港に代官所を置き、赤泊港もその一つとなった。特に寺泊との最短距離にあった当港は佐渡奉行の渡海港として整備され、奉行を出迎える村人で賑わった。特に江戸後期の文政10(1828)年に一般客船が押切船(汽船ではなく人力で櫓を押して進む船)により就航後は、港町として隆盛期を迎えることとなる。商人も台頭し、番所の御用問屋に取り立てられ番所出入りが許された商人もあった。
 赤泊の繁栄の理由として特筆されるものに職人と出稼ぎがある。平地に乏しく農産物に恵まれない当地では船大工をはじめ鍛冶屋、家大工、船箪笥造りなど様々な職人があらわれ、専業化した。これは奉行の渡海港であったことで、船の築造需要が高かったこととも無関係ではないだろう。また、江戸中期頃からは遠く蝦夷松前方面に出稼ぎに出向く者が増え、天明4(1780)年の記録では50人に及んだ。松前稼ぎと呼ばれたこの活動によって赤泊には経済的な恩恵がもたらされた。独自の貨幣経済も行われた記録がある。
 そうした賑わいは、明治中期あたりから変化が見られる。本土との間に汽船が就航するようになると、両津から新潟への航路に次第にその重心が移っていった。もともと赤泊港の背後は山地が迫っており島内各地からの陸路での到達が困難で、物資集散という面では不利であったのと、対岸の寺泊港も鉄道の連絡がなかったこともあり、次第に衰退していった。しかし一時中断された時期はあったが、今日まで両泊航路と呼ばれる寺泊との船便が維持されているのは、松前稼ぎでの私財で港の改修を図る者、さらに陸路の整備など涙ぐましいほどの努力が重ねられた結果と言えよう。
 海岸沿いの県道を走っていると近代的な港といった雰囲気しかないが、一本山側の旧道には濃厚な古い町並が残っている。これがかつての海岸線に沿って開かれた道なのだろう。
 中でも望楼のある間口の広い平入りの商家建築は赤泊を象徴するものといえる。松前稼ぎで財力を高めた田辺家で、平面的に八角形のこの望楼は小樽の鰊御殿の望楼に似せたとも言われている。この建物を中心とし、妻入りの建物や洋館の連続する辺りはこの町並の真骨頂とも言える風景である。
 旅館の看板を掲げた古い建物も複数見られ、見たところいずれも営業を続けていると思われる。他にも元医院であったと言われる和洋折衷の建物、土蔵など様々な表情の建物が残り、それらが緩やかに曲線を描く街路に沿って展開することから、変化に富んだ刺激のある町並探訪が楽しめる。




現役の旅館




元医院とされる建物


訪問日:2017.04.30 TOP 町並INDEX