吉田の郷愁風景

広島県吉田町<城下町・宿場町> 地図 <安芸高田市>
 
町並度 4 非俗化度 8  −毛利氏の城下町が町の基盤−


 吉田町には中世に毛利氏による郡山城が築かれ、その城下町として町の基盤が形作られた。毛利氏全盛の時代は人口数万の大都市であり、「西の京」「吉田千軒」とも称される大きな町を形成していた。現在でも新生安芸高田市の中心として地域の中心的な位置は変らない。
吉田の町並




 川沿いの町並 赤瓦の町家も見られた タクシー営業所に使われている伝統的な町家建築


 市街地の北部に広がる郡山に毛利氏が居を構えたのは延元元(1336)年のことで、その後12代目元就の時に全山を要害の地と定め、ここを拠点に安芸・備後北部一帯を掌中に収めようと試みた。それは山頂を大規模に造成して平地を形成したあと、本丸の周囲を二重に環濠し、周囲4kmもの城郭を建設したもので、戦の時には城下の人々約8,000人を収容したとの記録も残っている。
 山裾には江川(当地では可愛川)岸へ向けて街路が整えられ、郡山の西麓から一直線に貫く大路は、西から三日市・六日市・内町・立畷と呼ばれる町場が造られた。この大路を基本として、平行する道が形成され、さらに縄手と呼ばれる直交する街路が造られ、碁盤目状の町筋が整えられた。
 天正19(1591)年に元就の孫・輝元が広島城下に移ったことにより、郡山城は廃城となるが、以後城下とを結ぶ街道が整備され、また三次を経て山陰方面とを結ぶ出雲路も整備されたことにより、宿駅が設けられることとなった。この吉田宿は既に城下町として都市ともいえるほどの町場が整えられていたこともあって、商業の集積も自然に起った。かつての大路と縄手に沿って町屋敷が建てられ、瀬戸内沿岸の魚介類や塩と、周辺の村々の穀物・農産物等が取引された。
 明治以降も城下町・宿場町としての歴史的集積もあり高田郡の行政や経済の中心として多くの基幹施設が設けられるなど、現代に至るまで周辺地域の重要な拠点としての地位は揺らぐことはなかった。
 陰陽連絡の幹線道路である国道54号線が旧市街を分断し、町は大きく姿を変えた。しかしその中にあって、東側の川に向っての地区には伝統的な家屋も散見され、歴史を感じさせてくれる。かつての大路に沿う地区よりもその南側が後世になって町の中心として開発されたらしく、特に多治比川という江川の支流に近い辺りでは、商家だっただろう平入り・袖壁付の町家が幾棟か残っている。角地にはかつての旅館か料亭を思わせる、大柄な入母屋造りの町家が一際存在感を示していた。
 また、家々の瓦はこの地区で標準的な黒い瓦が多くを占めるが、山陰地区を思わせる赤褐色の瓦に葺かれた家々も何割かを占め、街道を通じて山陰方面の文化が流入してきたことを感じさせた。
 





訪問日:2007.01.28 TOP 町並INDEX