芥川宿の街道風景

大阪府高槻市<宿場町> 地図 
 
町並度 5 非俗化度 7 −旧西国街道の宿場町−
 



高槻駅の西側に残る旧西国街道沿いの町並


 高槻市は京阪間の主要な都市のひとつで、多くの幹線交通が市域を縦断しており、江戸時代の徒歩での交通路が道筋を残し、まして往時の面影を残す古い町並が残っているなどとは想像し難い。
 旧西国街道は京都から摂津国に入り、現在の高槻・茨木・箕面・池田・伊丹市の領域を通過し山陽道の西宮宿に達していた街道で、文字通り京都と西国を直結する街路として参勤交代時には多用されていた。実際このルートは大阪を経由する新幹線や東海道本線、国道1・2号線より道程の短い短絡路である。
 この西国街道については別の機会で紹介することとし、ここではこの街道沿いで町並としては最も旧態を残しているといえる旧芥川宿に触れることとする。
 JRの高槻駅からも程近いこの一帯は、近代的な都市計画がなされ表向きは大都市近郊の風景そのものであるが、駅の西側には小路が入り乱れた一角がある。しかしその中に東西に伸びる秩序立った一本の道筋を見出すことができる。これが旧西国街道である。
 この街道沿いには大都市近郊の風景とは思えない町の風景が連なっていた。平入り中2階の町家が、格子や袖壁を従えて至る所に残っている。決して連続度は高くはないものの、その意外性は十分である。
 宿駅としては古く弘安年間(13世紀)に始まったとされ、その後鎌倉幕府御家人の芥河氏一族の本拠地となり、芥川城を構えている。永禄11(1568)年に落城するまで、ここは芥河氏の城下町でもあった。それ以後町場は一時衰退したが、江戸期以降参勤交代制度が確立されると大名行列などの大通行を核に芥川宿は隆盛期を迎える。本陣を有し、天保年間(19世紀中期)の記録では32軒の旅籠があった。その他人馬継立ての問屋場、年寄、人足など宿場町の一切の機能が集結していた。
 西は芥川の流れにぶつかるまで約1kmにわたり連なっていた宿駅。その中央部、街路が直角に曲る独特の枡形の位置に小さな祠があり、この位置が当時の一里塚であるとされている。
 この旧芥川宿周辺に限らず、西国街道は意外に当時の道筋が壊されずよく残っている。都市部でありながらよくぞ旧状を保っているものと感心せずには居られない。
 




遠景には高層マンション等もあり、連続した町並風景もわずかだったが大都市圏にあることがその稀少性を高めている。




一部で妻入りの町家も散見された


訪問日:2005.09.04 TOP 町並INDEX