安中の郷愁風景

群馬県安中市宿場町 地図 
 町並度 5 非俗化度 7  −碓氷川の段丘上に開けた中山道旧宿場町−



 安中は碓氷川左岸の段丘上に町が発達、旧中山道を踏襲して市街地が展開する。
 この付近は中世野尻と呼ばれ、街道筋の北外れに安中忠成が16世紀中盤に安中城を築き、地名も安中と改められた。城下町が形成され、城の周りには武家群が置かれていたという。
 安中城は短命で、武田信玄に侵略された後天正3(1575)年に長篠の戦いにより武田軍が全滅、城主が不在の状態となりそのまま廃棄された。しかし近世になると安中藩が井伊氏によって開かれ、藩の長屋や屋敷などの遺構も残っている。
安中三丁目(伝馬町)の町並
 
 慶長8(1603)年徳川家康により中山道が整備されると、安中には宿駅が設けられた。この宿場の東に碓氷川を渡る箇所があり、幕末に至るまでここには橋を架けることが禁じられた。中山道は主要街道であったため多くの川で橋梁が建設されていたのだが、ここでは渡し船の使用すら許されず「徒渡り」と呼ばれる方法しかなかった。江戸の防衛のための措置というが、旅人にとっては随分不便なことである。冬期間だけ仮の土橋が架けられたりした記録が残っている程度で、明治初年に漸く木製の橋により陸続きとなった。 
 宿場町の規模としては各1軒ずつの本陣と脇本陣、旅籠は17件と中山道としては小さいほうであった。そのため宿の運営は厳しいものがあったが、それを救ったのが碓氷川の「川留め」であった。腰通し水、脇水など水位により渡し賃が定められており、それ以上に増水すると旅人は足止めを喰っていた。彼らは安中や東隣の板鼻宿に仮泊することとなり、そうした恩恵によっても安中宿は発展した。
 旧安中宿を歩いてまず特徴的なのは中央に坂があり、その両側はほぼ平坦であることである。すなわち二つの段丘に跨って宿場町が形成されている。今見る伝統的な家々は旅籠など宿駅時代のものは少ないようで、威圧感すら感じさせる大きな鬼瓦をもつ重厚な町家が数棟見られ、明治以降の商業町としての残像と思われる。明治に入るとかつて宿場町を構成した谷津・上野尻などの4ヶ村が合併して安中駅と呼ばれ、さらに周囲の村も含んで安中町が成立している。上毛一帯で盛んに行われた養蚕業はここでも発達し、明治12年組合製糸碓氷社が発足。また安中教会など、洋風の建物が残っていることからも明治以降に相当な商業の発展を見たことが、この町を歩くと痛切に感じられる。
 西から上野尻・谷津・伝馬町・下野尻と連なる町並のうち、坂のあたりから東の谷津から伝馬町あたりを中心に大柄な商家など古い町並らしい風景が残る。街道を外れると安中藩の武家長屋や旧碓氷郡役所、安中教会などの特徴ある建物が残っており、街道歩きにアクセントを添えてくれる。
 




安中三丁目(谷津)の町並




安中二丁目(谷津)の町並 安中一丁目(上野尻)の町並




安中三丁目(谷津)の町並 旧碓氷郡役所

訪問日:2008.10.12 TOP 町並INDEX