芦田宿の街道風景

長野県立科町<宿場町> 地図
 
町並度 4 非俗化度 8 −蓼科山麓にある中山道の宿駅−




旧芦田宿の町並




妻壁を見せて堂々と構える金丸土屋旅館




伝統的な平入りの町家が所々に残る


 芦田は立科町の中心集落で、南に蓼科山を控える高原上の町である。町域は複雑怪奇に南に細長く伸び、蓼科山頂まで達しているが、これがそのまま往時の芦田村の村域であった。中山道の宿駅であった当村は、蓼科山麓が小諸藩の御林であったことから見回りや八箇所あった鷹巣場の番など厳しい管理を強いられ、その他苛政と呼ばれた藩の政治に村人は疲弊し、それに反発する騒動も度々起こっている。
 中山道は町役場のある道筋の一本北に明確に残り、車が悠々すれ違える街道はそのまま町内の主要道として利用されている。そして所々に宿場時代の建物が残り、古い町並を形成していた。本陣土屋家は当宿の開祖と伝えられ、問屋も兼務していた由緒ある旧家だ。薬医門越しに前庭と、控えた位置に建つ母屋は風格を感じさせる。この辺りに高札があった。脇本陣山浦家は土屋家の斜向いにあったが、現在建物は失われている。
 旧宿場の町並は西に向って緩やかな登り勾配となり、見通しも開けている。本陣から西、妻壁を一際高く立ち上げる平入りの町家は旧旅籠屋・金丸土屋旅館である。真新しい看板を打ち付けてあるから今でも旅館として営業中なのだろう。街路に面した窓はかつて格子だっただろうが、現在はサッシに代っている。しかし袖壁、屋根裏の煙抜きの小屋根などがそのまま残され、こうした古風極まる旧街道の宿に泊ることで、中山道の旅も一層趣深いものになろう。
 町家は新しい建物に挟まれた状態で、今ひとつ連続した見応えには欠けるが、個の質は高く宿場時代の面影を濃厚に伝えていた。ここから宿場をはずれ西に向うと、次の宿駅・長窪との間にある笠取峠への坂道に往時の松並木が残っている。これは中山道開通当時に幕府から700本余りが下付されたもので、今でも並木と呼べるほどまとまって残っている。今では樹齢400年になる老木だ。街道松は道標代わりに幕府により各地に植えられたが、このようにまとまって残っている箇所は極めて少なくなっている。街道の生き証人として何時までも守っていってほしいものだ。
 
訪問日:2006.04.09 TOP 町並INDEX