坂梨の郷愁風景

熊本県一の宮町<宿場町> 地図  <阿蘇市>
 
町並度 4 非俗化度 8  −阿蘇谷東縁に位置する豊後街道の宿駅−

 



 
坂梨の町並 右は両替商などをつとめた菅家(屋号虎屋) 


 阿蘇の外輪山内の平地は北の阿蘇谷、南の南郷谷に分れ、前者の最東部に位置するところにこの坂梨がある。火山の火口部であり、南には中央火口丘群を仰ぎ見るが、付近の地形は比較的なだらかで耕作地帯が展開している。
 豊後街道の宿駅として重要な位置を占めていた。熊本藩主の参勤交代時にはこの街道を通り、豊後鶴崎(現在の大分市)の港より海路に委ねるのが通例だったからで、会所や御茶屋、女改番所などが置かれた。会所は藩の設営する現在でいう役所、女改番所とは女人の出入りを取締ったものである。
 この地には「大坂に坂なし、坂梨に坂あり」という俚諺がある。これは地区の東にある急坂の難所をしめしており、険しい峠路から解放される坂梨宿は、旅人が休泊するに適したところであり、また物資も集まりやすいところで各種商店も発達した。豊後方面のほか南郷谷への道も分岐し、宿場町として発展を見た。
 明治24年の記録では戸数385、1,800余名の人口を有し、大正期には荷馬車、客馬車なども多く幹線交通の要衝として賑わっていたが、昭和3年に国鉄豊肥本線が開通すると、中心は宮地駅付近に移り坂梨は徐々に衰退していった。昭和10年には人口1,770名ほどと、やや減少している。
 国道57号の一本南側に明確に街道筋が残り、家並は連続性こそ乏しいが街道集落らしい趣を残している。中でも目に留まるのが国道265号との交差点東にある菅家、屋号虎屋の建物である。塀に囲まれた広大な敷地を有し、街道に接して瓦ぶきの厳かな門を構える。豊後岡藩などへの両替商を行っていたほか、幕末期から明治にかけ盛んに行われた朝鮮人参の栽培、商いでも財を成した旧家である。
 設置された案内板を見ると、街路の両側に何々屋と呼ばれた店舗や宿屋が連なっていたさまがわかる。現在は国道に隠れてその存在に気付くこともないところだが、偲びながら歩くと往時の情景が浮び上がってくるようである。弘化4(1857)年に竣工した石橋もそのまま使われていた。
 
 


 


 
 






 江戸末期竣工の石橋・めがね橋


訪問日:2023.09.24 TOP 町並INDEX