美唄の郷愁風景

北海道美唄市【産業町・社宅街】 地図
町並度 4 非俗化度 10  −炭鉱従事者のための職員住宅群−




南美唄町北町の旧職員住宅街


 美唄の地名はアイヌ語のピパオイ(鳥貝の多いところ)に由来するという。空知地方のほぼ中心に位置し、市域西端に石狩川が流れるが、東半分は丘陵地となっている。この山地一帯は美唄の町の発展に長らく寄与してきた産炭地帯だ。
 
 

 
 明治初期まで付近はチャシナイ原野、トイノタップ原野などと呼ばれる未開の地であったが、樺戸集治監の受刑者により開拓され、同20年頃に美唄川の川守などとして定住者があらわれている。その後鉄道や道路の建設工事により人馬の往来が活発となり、材木商や旅人宿、馬車商などが立地したとされる。屯田兵も明治中期に約400戸が配備され、この頃に市街の基礎が形成されていった。
 美唄の産業でかつて最も影響力の大きかったのが採炭業だ。本格的に炭鉱が稼動し始めたのは大正に入り美唄軽便鉄道が営業を開始した頃で、三菱合資会社に買収され急速に炭鉱が開発された。その後三井も炭鉱を買収して経営を始めるなど、大資本による採炭業が本格化していった。各炭鉱の周囲には従事者たちの住宅が集まり、市街地が形成された。東美唄・南美唄・日東などがそれである。
 戦後は斜陽産業となった石炭業界。美唄でもそれは例外ではなく昭和38年に三井美唄鉱が閉山すると以後10年の間に全ての炭鉱で採炭を取りやめた。
 ここで紹介するのは南美唄にあった三井美唄炭鉱の旧職員住宅群である。昭和10年に建てられた所長住宅をはじめ戦前に整備された炭鉱で働く職員の為の住居で、現在も多くが現役の家屋として使用されている。いわゆる炭住といわれる炭鉱労働者の住居はほとんど見ることができなくなった現在、比較的状態よくその姿を残すこの職員住宅は炭鉱が現役だった頃の姿を留める貴重な町並風景といえる。
 南美唄町では平地の仲町、北町から後に山の手と呼ばれる丘の上にも職員住宅が建てられた。いずれも蒲鉾のような独特の外観の平屋で、入口は角屋のように飛び出た位置に設けられていて、中門造りを思わせる。その突起が一つの棟に二つ以上設けられ長屋形式となっているものもあった。
 他の炭住と比較し建物が簡素でなく造りがしっかりしていたことと、市街中心から適度に離れた位置にあったことから住民も離れることなく、これまで原型が保たれてきたのだろう。古い町並というには些か趣が異なるものだが、産業遺産として十分な価値のある建物群だ。 
 




南美唄町仲町の旧職員住宅街




南美唄町仲町の旧職員住宅街




川を挟んで小規模な繁華街があった 市街中心に向けては一度家並が途切れるため職員住宅のために開けたものと思われる

訪問日:2008.01.02 TOP 町並INDEX