備中町は成羽川流域に開ける町である。町の中心は東部の布賀(黒鳥)地区であるが、現在では人通りも少なく過疎の町というイメージである。しかしここは中世に近江国から領家職として平川氏が来往し、領主となって紫城を築いたところである。その後江戸期には松山藩領や幕府領、隣の成羽町を統治していた旗本山崎氏の所領など目まぐるしく領主が変遷しているが、一貫していたのは成羽川が交通の動脈をなしていた点である。この地域は成羽川沿岸を除いてはほとんど台地上の高原地帯であり、陸上交通は斜面を上り下りしながら集落を結ぶ道のみであった。近世になって物資の輸送が盛んになってくると、米など重量物の輸送に川運を利用するようになった。それに伴って山道から河岸場へ下る道も整備されて、次第に成羽川が交通の中心となる。この黒鳥はその最も栄えていた河岸場の一つでもあった。年貢米などもここから積出され玉島へと運ばれたのである。黒鳥に陣屋町が築かれたのもこの時期であった。
現在この町筋の裏手を流れる成羽川に、交通の拠点を見出すのは難しい。黒鳥の集落は忘れられたかのように、川堤を車が通過するのみであるが、集落に分け入ると妻入平入混在、意匠もまばらながら重みのある古い家並が見られる。吹屋往来の一部ともなっていたことから、山陰の赤瓦に紅殻に塗り込められた格子を填めた旧家も見られた。古い町を象徴する造り酒屋もあり、繁栄を今に語り継ぐには充分なものであった。
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