豊後森の郷愁風景

大分県玖珠町【陣屋町】 地図
 
町並度 5 非俗化度 7 −豪壮な塗屋造りの見られる盆地の町−





森の町並
 

 玖珠町は大分県の西部、周囲には湯布院温泉をはじめとする数多くの温泉地があり、久住高原から阿蘇への北の入口、耶馬溪への玄関口ともなっているが、この町自体は地味な印象である。
 鉄道の駅は豊後森駅が窓口であり、駅前にも東西に商店の連なる町並が展開しているが、ここには古い姿はない。旧市街は駅から北に3kmほど離れたところにある。駅前付近は現代になって駅の設置により拡大した新しい市街地であり、山間の小規模な町でこのように中心市街地が二分しているのは珍しい例といえる。
 駅前商店街から大分自動車道をくぐり少し北に進むと、国道387号線から西側に分岐する旧道に沿って旧市街が展開する。土蔵建築のような間口の広い伝統的な建物が二つ三つ眼に入ってくる。間口が広く古くからの商家だったのか。特に二階部は堅牢なつくりで、窓は表面積に対して小さく、土壁を施した扉により完全に封鎖できるような、土蔵そのものの外観の建物も見られる。
 この町は慶長6(1601)年に久留島氏がこの森村に陣屋を設けたことがその始まりと言われている。わずか1万4000石ながら、町の北西の角牟礼山麓に居を構えていて、この陣屋の南側に町家を配していた。細々ながら維新まで周辺地域の揺るぎない統治を行っていた。
 森藩は小大名であり、また周囲を山地で囲まれているため他所との交流も容易ではなく、商業も大きくは発達し得なかったようである。年貢米の供出もその搬出路とともに、苦労の一つであったといわれる。明治に入っても、玖珠郡内の商品は過半数が楮皮(和紙の原料)で、本格的な農作物にも恵まれなかったようだ。
 それでもこのような豪壮な町家が、数少ないとはいえ残っているのはどういうことなのか。それは明治16年に発生した大火の遺産ともいえる。旧家のほとんどはこの火事で消失し、町は大打撃を受けた。多くの家屋が当時まだ竹瓦を載せたような非常に簡素な家で、それを教訓に財力を誇っていた一部の商家は漆喰の塗屋造りとし、火事に強い建物とした。それらの数は少ないものの、頑丈な造りであったために、それほど商業が発達しなかった町の割には比較的よく町家の風景が残っているのであろう。他にも煉瓦を多用した蔵や塀の成す風景も残り、硬質で重厚な趣を感じさせる。
 町の付近には頂上付近が平坦で、周囲が急崖となった独特な山の風景が見られる。これはメサと呼ばれる地形で、硬い岩盤以外のところが侵食され残されたものある。それらの自然風景とともに、一種独特の町の風景が今に残っていた。
 
 
 




土蔵風の家屋や煉瓦は明治期の大火後のもので、独特の町並景観を形成していた。




訪問日:2006.08.15 TOP 町並INDEX