千代田町は石州瓦の町である。この町は石州街道が南北を貫いており、石見の町の風情が家々に濃厚に香っているものである。石州街道(この地域では特に石見浜田路とも呼ばれた)は山陰との連絡路、物資の運搬路として、とりわけ中国山地で生産される砂鉄などを運ぶ重要な役割を担っていた。
ここで紹介する町の北端近い蔵迫、南部の本地と、町並の色彩は赤茶色である。とりわけ本地地区は宿場町であったところで、南に向い緩やかな登りとなっている街道の両端には、静かな家並が取り残されたようにたたずんでいる。旧い棟割をそのまま残す屋敷もある。
旧態を留める古い家々は一階部分も改修されていないものが多く、それらは格子、出格子、戸袋、持送りを備え、二階妻部には袖壁が配されている。そして赤瓦の隅々には、鯉や龍などを形どったさまざまな装飾がみられ、これは赤瓦文化圏に共通する特徴である。
本地では宿駅としての機能を発揮していた頃、旅籠屋のほか医師、大工、木挽、鍛冶などの職人、商人が数多く存在し、町場として相当な賑わいだったという。また蔵迫地区でも旅籠一軒を有し、職人や醤油醸造に携わる家々など半宿、街道の要所としての役割を持っていたと思われる。いずれの集落でも現在も一本道に沿い細長く家々が連なる街道町の形が崩れておらず、風情を感じさせる。国道が旧道を外れたところに敷設されたことも幸運だった。山間部であり、鉄道も建設されなかったため、維新後も比較的宿場・街道集落としての重要性は保たれていたようで、現在残る町家は主に明治時代以降の建築のようであった。
本地より街道は南東側の可部峠を越え、物資は可部より川船に積み込まれた。可部峠は険しく、荷馬や人足を雇って荷を送った。峠を控えていたこともこの本地が宿駅として栄えていた大きな要因なのだろう。
|