長府の郷愁風景

山口県下関市<城下町> 地図
 
町並度 6 非俗化度 4 −長門の中枢であった町−





古江小路の練塀の町並


 長府は今では下関市の一部となっているが、その名の通り長門国の中心であったところであり、関ヶ原の役後、毛利秀元が長府五万石の城主として入府したのが、城下町長府の始まりである。城は櫛崎城といい、瀬戸内海に突出した半島にあったが、城そのものは元和元(1615)年の一国一城令によって廃棄された。しかしその後も政治・文化の中心としての地位は続き、維新を迎えている。
古江小路の管家長屋門(長府古江小路町)




古江小路(長府古江小路町)の町並 忌宮神社北側の「横枕小路」


 
萩を本拠とした毛利氏、長府藩は支藩であり城下町としては小さいものであったが、山懐に抱えられた地形、そして国道や鉄道の沿線から少し外れたことで、奇跡的に往時の町割が残っている。
 町は上級の武士の居住する地区を囲んで中・下級武士が住む形をとり、それらの地区には今でも練塀が多く残っている。特に古江小路と呼ばれる通りには、50mもの長さを持つ塀と、重厚な長屋門を構える管家がある。街路は山裾から海に向かい緩やかな坂をなし、意外に起伏が多い。壇具川が開いた谷間の台地を人工的に拓いた様子が受取れる。他の多くの旧城下町と同様、残存するものは塀と門ばかりで建屋はほとんど建て替えられているのは、商家の建物と比較してその造りが以外に貧弱であったのだろうか。
 また、この町並の北側山麓から南縁にかけて山陽道が通過しており、その付近には町人町として整備されたという。
 町並の外れに位置する忌宮神社は、西暦193年に仲哀天皇・神功皇后により豊浦の宮が築かれた由来から創建された歴史を持ち、この裏手にも「横枕小路」と名付けられた練り塀の通りが見られる。
 萩とは違い観光客が雪崩れ込むことはなく、団体客も少なく静かな武家街である。練塀の小路では時間を気にせず歩を緩めて巡りたいものだ。




長府宮ノ内町の町並

訪問日:2002.01.04
2003.12.28/2014.11.03再取材
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