大ヶ塚の郷愁風景

大阪府河南町【寺内町・在郷町】 地図 
 
町並度 5 非俗化度 9  −台地上の細道に開ける町並−



河南町大ヶ塚の町並


 河南町大ヶ塚は名の示すように河内地方の南部に位置し、平野部から金剛山地に差しかかる丘陵の交錯する一帯にある。古くは台塚・大河塚とも書き、戦国期には根来氏により城が構えられていた。根来氏は紀北の根来寺を拠点に、根来衆という一大軍力を形成し付近一帯を支配下に置いた。
 元禄期に河内に勢力を伸ばした織田信長によって、当地の根来衆は勢いを失ったが、大ヶ塚では村人がこの地を守ろうと久宝寺顕証寺(現八尾市)に依頼して善念寺を顕証寺の通寺としたことからその拠点性は保たれた。当時河内・大和を中心として発達した寺内町として自治組織が組まれ、その典型的なものだったが、なぜか寺内町としての史料は余り残っていない。
 河内地方は木綿や菜種生産が盛んで、その集散地として近世以降も重要な土地であった。在郷商業町としての地位を築いた。これは内陸部にありながら大和川の支流沿いに当たっており、水運により大坂に通じていたことも大きかった。天保5(1834)年の記録では48軒の商家が記録されており、その内容も木綿屋・米屋・鍛冶屋・帯屋・餅屋・菓子屋・飛脚屋など多岐にわたっている。また酒造業も盛んであった。そして特筆されるのが歌舞伎や浄瑠璃、相撲などの興行が盛んに行われた点である。それだけ賑わっていたのだろう。
 明治以降、鉄道交通が発達するまでは南河内では富田林を凌駕するほどの地位を構築していたところであった。
 町並は知らずに訪れるとその存在を捉えにくい。幹線道路に面していないこともあるが台地上の細道に展開していることがこの町並を訪ねにくいものにしている。発展の時期が古い時代に限られ、明治以降衰退する一方だったことから質量ともに大きく残ってはいないことも助長している。しかし残った商家・町家建築の風格は高いまま保たれており、土蔵を複数従えた間口の広い邸宅、細かい格子や虫籠窓などの意匠も原形のまま残されていた。丘の上という開発されにくい地形にあったことも幸いしたのかもしれない。
 人知れず密かに残る町並といった印象である。 



河南町大ヶ塚の町並


河南町山城の町並




台地下の幹線道路沿いにも一部見られる 土蔵の連続する風景もあった





訪問日:2011.08.13 TOP 町並INDEX