大聖寺の郷愁風景

石川県加賀市<城下町> 地図
 
町並度 5 非俗化度 8 −加賀藩支藩・大聖寺藩の城下町−





大聖寺荒町の町並 大聖寺荒町の町並




大聖寺本町付近の町並 大聖寺山田町付近の町並
 

 大聖寺は加賀藩の支藩・大聖寺藩の中心として城下町が形成されていた。寛永16(1639)年加賀藩3代藩主前田利常の三男利治を大聖寺に配し、7万石で立藩した。北側の大聖寺川と東側の熊坂川を自然の堀とし、内部に城下町を築造した。
 藩の政治は初代利治と2代利明の時代に体制が築かれ、金銀等の資源を開発して後年の九谷焼を生む基礎を築いたほか、加賀藩から紙漉きの技術を取り入れ定着させた。また大聖寺川を改修し、低湿地帯で洪水に度々見舞われる城下の治水を図った。
 しかし3代以降、藩の財政は悪化の一途を辿っている。藩主はほとんど加賀藩からの養子で、藩政は弛緩し職権乱用などで切腹を命じられた藩主も出た。さらに幕府から、将軍綱吉による犬小屋建設や三河国(愛知県東部)吉田橋の架橋工事の補佐など幾度となく手伝いを命じられ、財政は困窮し正徳2(1712)には大規模な一揆も勃発している。藩は加賀藩に頼み込んで赤字を補填していたが、大火も頻繁に発生し、6代目利精などは父の喪中であったその折でも江戸の遊郭に通うなどして加賀藩からお咎めを受け金沢に隠居させられた。このような状態であるから宗藩の補助も与えられなくなり、家中からの借り上げや町人からの強制的な御用金、各地の豪商からの借銀などにより賄うしかなかったようである。藩内の貿易港、橋立や瀬越・塩屋の廻船業の豪商なども相当額を献金している。藩が彼らに士分格を与えたのも、補助を得る目的であったことは明らかである。また百万石の支藩という肩書にこだわり体面維持のためか、9代藩主利之は幕府に10万石の高上げを懇請し認められたが、このことも藩の経済を一層苦しくした。
 現在の大聖寺の町並は路地が碁盤の目風に走っており、城下町時代の町割が比較的良く残っている。町名も本町・魚町・京町・鷹匠町・鉄砲町など城下町らしい名が踏襲され、それらの地域に古い家屋が残っている。それらは側面が板張で、2階部が袖壁と庇、屋根の四方に囲われた北陸独特の外観を示し、多くには軒下に幕板が下がっている。それは近畿周辺部で見るものより大型で、さらに庇状の板が取り付けられているものもあり、雪の多い地を物語っているようだ。 






大聖寺の町並  大聖寺山田町の町並。幕板の下にさらに庇を張出しています。



訪問日:2003.11.02 TOP 町並INDEX