勝山の郷愁風景

福井県勝山市【城下町】 地図
 
町並度 6 非俗化度 7  −奥越の城下町−





 奥越と呼ばれる嶺北地区東部に勝山の町がある。南側は大野市に接するが、地形的には九頭竜川の谷間に町が展開するところであり大野盆地とは区別される。しかし、谷とはいっても非常に広く浅いため、地元では勝山盆地と俗称されている。
 町を訪ねるとそのことが納得できる。古い町並は主に川岸に近い低い土地に残っており、背後はすぐに微高地に接している。この段丘上はかつて士族の住まう地区で武家屋敷等があったというが、例に漏れずそのような家屋は残っていない。武家の建物は簡素で商家は造りが頑丈で、しかも明治以降も商店や問屋として存続したからだ。

本町二丁目(本町通)の町並





本町一丁目(本町通)の町並 本町二丁目(本町通)の町並




沢町一丁目の町並 本町二丁目(本町通)の町並
 

 城下町勝山は天正8(1580)年に柴田勝安により段丘上に勝山城が築城されたことから始まり、以後領主が頻繁に交替したが、元禄4(1691)年に小笠原氏が美濃国から入部して以来勝山藩主としてそのまま維新を迎えている。
 城下町は初期より整備され勝山三町と呼ばれる袋田町・後町・郡町が置かれ、相当な規模の町場が形成されていて、元文3(1738)の記録では1万人超の人口を擁していた。各種商業が栄えたのは容易に想像できるが、本格的な産業・商業的発展は幕末から明治以降にかけてで、付近で煙草や綿花の栽培が盛んになったことにより、それらを扱う商人や問屋が台頭していった。煙草産業は明治後半には石川・富山・岐阜を含めた4県の総生産高の4割を占めるほどであったが、専売制などにより大正期には衰退した。また、近代工業化により製糸業が町の主要産業となり、後に機織業に移行した。煙草産業から補償金を得て転換した者が多かったのが生産力を押し上げ、現在も繊維の町として知られる町の産業の基盤となった。
 先に書いたように河岸段丘上の旧武家町地区には古い町並としての色は淡いものの、河畔に接する低地には平入りで袖壁を二階端部に設置した伝統的な建物が現在でも健在であった。特に北側の本町一丁目付近では連続性が高く、古い町並として見応えがある。その他にもこの本町通と呼ばれる街路には総数的には多くはないものの、現代風の店舗の様式を取り入れながらも伝統的な意匠を前面に出す努力と心意気が随所に感じられる建物が散見される。呉服店が多く眼につくのも、繊維の町らしい佇まいである。町は明治29年に大火を経験しているので、ほとんどがそれ以後の建物である。それは建物の間口の広さ(これは商家・店舗という側面もあるだろう)、軒線の統一、二階部の立上りの高さなどに現れており、町家系の古い町並としては大味ではあるが迫力を感じさせる。一部には本うだつを持つ町家もあった。
 本町通より九頭竜川までの間に後町通、河原通があり、町人町はこの3本の南北の通りを中心に展開していた。河原通は旧遊郭の名残が残っており、現在でも営業している料亭もある。現在は地方の小都市であるが、このような一角が残っていたことは、明治以降町がいかに賑っていたかを証明するものの一つであろう。
 近くには伏流水が自噴しており、水のある潤いの風景があった。
 町は伝統的な町の景観を守ろうと努力されているようで、銀行の建物を付近の景観にあわせた外観に改装したり、段丘上から河畔の旧町人町に下る坂道などには城下町時代の呼び名とともに由来が簡単に記された立て札も見られた。
 




本町二丁目の町並
本町一丁目(河原通)の町並


訪問日:2007.10.13 TOP 町並INDEX