河野浦の郷愁風景

福井県河野村【港町】 地図 <南越前町>
 町並度 6 非俗化度 4 −多くの北前船を所有していた越前海岸随一の港町−
 




河野浦を代表する旧廻船問屋・右近家前の町並


 風光の美しい越前海岸の一角にある河野村は、山地が日本海に迫る地形で平地に乏しく、農業には適していなかった。そのかわり眼前の海は多大な資源の宝庫であり、それは海産物のみならず江戸時代になって西廻り航路が発達し、北前船の往来が頻繁になってから交通の要衝としても重要な位置にあり、町は潤った。
 町の中心部、国道305号線より一本山側の路地を踏み入れるだけでその繁栄振りを簡単に伺い知ることができる。廻船問屋であった右近家の建物が保存され、見学することが出来る。この裏路地は旧廻船問屋であった屋敷が連続し、山側には住居となる邸宅、海側に土蔵などを従え、中央が通路となっている。半ば私有地に足を踏み入れたような感触になる独特の町並である。










右近家付近以外では砂利道の路地となり 山側に邸宅 海側に土蔵や倉庫を従えた姿が連なっている
 
 

 河野浦は北に接する今泉浦とともに江戸初期から廻船業が興り、後に河野浦に一本化されてますます勢力を拡大していった。中期には右近家や中村家など代表的な問屋では600石積などの大型船も保有するようになり、各地で活躍を見た。右近家の例を挙げると、江戸後期には大坂の廻船業者と船を共有し、共同経営により規模を拡大していき、幕末頃には年間12,000両余の利益を上げる有数の大商家に成長している。
 明治に入っても蒸気船など船の近代化をいち早く手掛け、後に右近家は保険会社に転進、中村家は北洋漁業に乗り出し繁栄の一時代を築いた。
 一方、近隣との物資の往き来も盛んで、日常物資は敦賀港から仕入れ、水揚された海産物は小型船で敦賀に持込まれるものの他、背後の山道を越えて武生や鯖江方面に運ばれた。後者では朝市に出すために女棒手が天秤棒をかついで一昼夜かけて山道を辿ったとされ、この付近では河野が最も近い港であったため珍重されていたのだろう。付近の山地では木の実が多く収穫され、これも村の主要な財源となっており、楮(紙の原料)の生産も盛んだった。その他石灰なども河野浦から積出され、海陸双方の資源や産物に恵まれ裕福な家も多かったのだろう。
 幹線交通から外れた現在はひっそりとしているが、ここで紹介する界隈は栄華の残像を偲ぶに余あるものを感じさせ、問屋群自らが古い町並を演出していた。
 
    
  
訪問日:2007.10.03 TOP 町並INDEX