福野の郷愁風景

富山県福野町【在郷町】 地図 <南砺市>
 
町並度 6 非俗化度 8 −砺波平野南部の一大中心地であった−
 
 
福野の町並
 福野は砺波平野南部、城端線の駅が設けられその周辺に市街地が展開している。
 江戸期は加賀藩領で、町場が発達し始めたのは慶安年間(17世紀中期)、町立ての願書が藩に受理されてからである。初年に57軒の町家や商家が建ち並んだという。その後全戸が焼失する火事に見舞われるなど惨事もあったが、江戸末期の天宝年間には400戸を超えるまで発達した。
 毎月2・7の六斎市が開設され賑わった。その繁栄は高岡・今石動・井波・福光への道が交差する辻となっていたことが大きく、野尻野の追分と呼ばれた街道の要衝であった。
 産業としては木綿織が盛んで、桟留縞と呼ばれ藩の援助も得て急速にその生産を伸ばした。それらは藩内の呉服商に売り捌かれ、町は豊かに潤った。
 明治に入り鉄道網が発達し始めると、高岡とを結ぶ城端線の前身・中越鉄道の福野駅を起点に、石動(現小矢部市)、青島(現井波町)へ路線が伸び、砺波平野の鉄道の一大ジャンクションとなった。先の木綿産業は機械化されてさらに発展を見た。
 








 町並は福野駅が扇の要のような形で面的に広がり、随所に伝統的な家々を残している。一部には土蔵を従え、塀に囲われた敷地の広い邸宅も見られた。しかし他の多くは比較的間口の狭い都市型の佇まいで、袖壁や軒下の木製の幕板が見られる旧家もあった。伝統的な家屋は江戸期にまで遡るようなものは少なく、多くは明治・大正期に建築されたものと思われる。
 近年はこの付近も高速道路網が整備されたが、ICは砺波や福光に設置され福野は通過する町となってしまった。しかし今見る町並は、以前は中心地的役割を担っていたであろう色を存分に感じさせるものであった。





訪問日:2013.05.04 TOP 町並INDEX