江戸から越後・佐渡への重要な街路として五街道に次ぐ格のあった三国街道。上越国境の三国峠に由来し、峠道は険しいものの、北国大名の参勤交代、佐渡金山を管理する佐渡奉行の往来など重要通行も多かった。
布施・今宿はそれぞれ宿駅だったところで、もともとは新巻村といったが、16世紀末の文禄年間に下新田村を含めた三村に分村した。沼田藩主真田氏により宿場町が整備されたが、この界隈の泊地としては須川宿により重きが置かれており、各村は主に人馬継立ての拡充が目的であった。
各村は近接しており、人馬勤めはひと月のうち上10日を下新田、中10日を今宿、下10日を布施というように分担させ、それぞれ2軒の問屋が置かれた。また今宿には月六日の市が立っていた。
この区間の旧三国街道は国道17号に踏襲されており、両側に伝統的な建物が見られることから現在の二車線車道相当の幅員があったことを示している。家々は大柄で二階部に気抜きの小屋根を持つものが多く、一帯で盛んだった養蚕が行われていたのだろう。多くは街路に妻部を向けているが、玄関は街路側にはなく平入りとなっている。
今では車で通過するだけの所となっているが、質的には高い建物群であり、少しでも長く面影を保ってほしいものである。 |
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