伏見の郷愁風景

京都市伏見区<商業都市・城下町> 地図
町並度 6 非俗化度 4 −屈指の酒どころはかつて商業・交通の一大中心地だった−






伏見の町並 黄桜酒造付近。内部が公開されています。




黄桜酒造付近の町並 運河沿いの酒蔵群




食事処として活用されている酒蔵 月桂冠酒造付近

 

 
 伏見といえば酒どころという言葉が今ではすっかり対句になっている。「伏水」が地名の由来となったほど、東部を限る山々から豊富な伏流水が流れ、それが酒造りに適したものであることから酒造業が栄えている。宇治川から引きこんだ運河沿いに酒蔵の並ぶ風景は伏見の風物詩ともいえ、月桂冠、黄桜などお馴染みの銘柄はこの伏見の酒で、それぞれこだわりの伝統的な構えで営業を続けている。
 現在は京都市の南部を占めている伏見の町は、江戸初期には豊臣秀吉による城下町が築かれたところである。それは徹底した都市建設で、伏見山に築城してその西の低湿な一帯を開拓、宇治川の流れを引寄せて更に淀川と結んで大坂との物流を確保し、京都や大坂、大津や奈良など各方面への街道も新設または整備した。市街地には外堀が巡らされ、防衛のためのみならず舟運の上でも大きな役割を果していた。当時としては一大土木工事だったはずである。
 外堀の内側に町が建設され、街路を桝目のように直交させて商家、町家を配置していた。政治的に独立した地域を形成していて、元和9(1623)年に伏見城が廃城となってからも、交通の要衝にあったこの伏見は伏見奉行とよばれる大名格の極めて身分の高い奉行職の支配するところであった。山城一国を支配する京都町奉行とは切り離された行政区画だったようだ。
 地の利を得て、当然商業・産業も大きく発展した。酒造業は江戸期には余り卓越してはいなかったようで、鉄道が開通して販路を拡大した明治中期以降の話だそうだ。しかし多くの同業者集団が存在した中で、米問屋仲間、樵木屋仲間、材木屋仲間は伏見三仲間と呼ばれて問屋的な性格を持ち、他の諸仲間を支配する位置にあった。その他問屋や運送、宿屋に関する仲間が多く、遊女屋も数多く存在した。宿駅的な性格も濃く、また江戸幕府が伏見を伝馬所として位置づけたことにより、参勤交代の西国大名は必ずこの伏見に立寄った。本陣が四ヶ所、脇本陣が二ヶ所も存在したということからもそれがうかがえる。
 


訪問日:2005.01.03 TOP 町並INDEX