郷原宿の郷愁風景

長野県塩尻市<宿場町> 地図 
 
町並度 5 非俗化度 7 −本棟造りの旧家が農村集落的に残る旧善光寺街道宿場町−


   
旧郷原宿の町並 旧郷原宿の町並




この地域独特の本棟造りの旧家が散在する町並です。




 旧街道は今では自動車が通過するだけですが、街路から少し控えた家々は往時の形を残しており、
その部分には木々が植えられ緑と調和した町並です。
 

 旧善光寺街道は、中山道の洗馬宿から北に分かれて松本城下を通り、篠ノ井追分で北国街道と合流して善光寺に至っていた街道である。北国街道の追分宿(現軽井沢町)から善光寺までの区間も善光寺街道と通称されていたことから、この西廻りの街道は善光寺西街道、または北国西脇往還とも呼ばれた。
 洗馬宿から分岐して最初の宿駅がこの郷原であった。この宿場の成り立ちは定かではないが、中山道を塩尻峠経由に改めた折に近在の人々を移して設置したと言われている。街道名が表すように、善光寺参りの人々で賑わった。京都及び美濃尾張方から善光寺に参拝する場合必ず通る道筋であるので、往来は極めて賑やかであったろう。江戸初期の慶長19(1614)年の記録では既に伝馬役を務めた家が10件あり、北は村井宿(現松本市)へ継ぎ渡された。幕末には家数も70余軒に増加している。
 現在に残る旧郷原宿の姿は宿場町としては非常に特徴的である。まず街路に防備のために一般的に設けられる枡形や鍵曲りと呼ばれる屈折が全くないこと、そして家並が軒を接する町場の形ではなく、間口が非常に広い屋敷型邸宅の形をとっていることである。これは中山道木曽路など近在の旧宿場町の町並と比較しても、著しい対比として感じられる。家々は街道から少し奥に控え、前庭を従えた旧家もある。これは、前に述べたように他村の住民を導いて政治的に作られた後発的な町であったからだろう。幕末近い安政5(1858)年の大火に際して、再建の家々の間口5-6間、奥行40間として計画され、その奥は60間の耕地として定めた。このことも今に残る整然広々とした町の景観の元となったのだろう。 
 旅籠屋は木賃宿まで含めると十数軒あったが、これらも多くは農業との兼業であった。また茶屋や商店などを副業とし生計を立てていた家も多く、五街道と離れ参拝客などの庶民の通行が多かった沿道であることもあり、のどかな雰囲気の漂う宿駅だったのだろう。
 家々にも大きな特徴がある。本棟造りといわれるもので、妻入りの極めて緩い傾斜の屋根の頂点に、烏おどしと呼ばれる棟飾りが付く。全国でもこの地方独特の建築様式である。家々の前が広く空いているのでそこを前庭にしたり、樹木が植えられているので街道からは家並がはっきりとはしないが、独特の風情であった。
 
 
 


訪問日:2004.05.30 TOP 町並INDEX