長倉の郷愁風景

茨城県御前山村<商業町・陣屋町> 地図  <常陸大宮市>
 
町並度 3 非俗化度 9  −那賀川に河岸が置かれ水運で賑わった−



 
 

 商家や立派な門をもつ邸宅も見られる長倉の町並
 

  那珂湊で太平洋に注ぐ那珂川は那須高原にその源を発し、下野の地に豊かな耕作地をもたらした後常陸に達する。ここで紹介する長倉は、常陸に入り間もなくの所にある。
 国境に位置していたことで古くから要害の地とされ、文保3(1317)年に佐竹行義の二子・義綱が長倉氏を名乗り、この地に築城した。文禄4(1595)年、新治郡柿岡城に移るまで、14代・約280年にわたり長倉氏の居城であった。以後水戸藩領となってから城は一旦廃されたが、天保9(1838)年に9代水戸藩主・徳川斉昭が松平頼位に命じて城を修復、長倉陣屋として幕末まで続いた。
 長倉は城下町を基盤に、那珂川の左岸にあって水運の拠点となったことが発達の要因となった。西田河岸と呼ばれる河岸が整備され、西番所・東番所の二箇所の番所が置かれ物資を統制した。下り荷は薪炭、木材、煙草、楮などで、上り荷は味噌や醤油、塩、油などであった。
 幕末の頃には常陸一帯で産出される紙が取引され、毎月1・5の付く日に取引が行われていた。ここは水戸より下野茂木・烏山方面への街道が通じており、水運と併せ往来が多かったことから賑わいがもたらされたのだろう。
 古い町並としては国道123号から分岐する県道に沿い残っている。那賀川からは直角な方向に街村的に展開しており、これが茂木方面への旧街道であろう。立派な屋根構えの商家、板塀と門を持つ屋敷など歴史を感じさせる佇まいなのだが、更地になっている箇所が目立つなど町並から感じられるものは淡くなっているようだ。建物の外観や街灯に記された屋号などを見ると、かつて商店が連なっていた様子がうかがえるものの、それらの灯も消え寂しい状態となっているようだ。
 なお地元では長倉宿と称されており(バス停名にもある)、下町・中町などの町名もあるようだが、宿場町としての歴史は参考文献などでは今一つ確認が出来なかった。
 
 



 
 



 
 
   

訪問日:2023.04.02 TOP 町並INDEX