伯方の郷愁風景

愛媛県伯方町【産業町・港町】 地図 <今治市>
 
町並度 4 非俗化度 10 −藩により大規模な塩田経営が行われた製塩の島−






多くの商店が連なっていたことを思わせる木浦地区・中心街の町並




港近くの町並
 


 伯方島は今治の北、大三島と大島の間に位置し西瀬戸自動車道によって本州・四国本土と陸続きとなっている。
 中世には一帯を支配した海賊・村上氏の本拠の一つとなり、現在の島内一の集落である木浦に伯方城が置かれていた。
 伯方島というと全国的に塩の産地として知られるところとなっており、その歴史は江戸初期に遡る。後期になると、今治藩は雨が少なく入江の多い地形など塩田造成への適合性に着目し、それまで小規模な揚浜式で行われていた塩田をより効率の良い入浜式に改築させ、文化14(1847)着工、2年かけて西浜・東浜の潮止めに成功した。その後も開発が続けられ、76町歩(約0.8km2)の広大な塩田が造成された。塩浜稼ぎは島の基幹産業となった。
 明治になって旧藩主が塩田を売却し、浜旦那と呼ばれる商人が所有するところとなり、自由な商売も可能となって益々製塩業は発達した。下関を経て日本海を新潟まで航行して塩を売り、代りに米を買い込んで北海道でその米を売り、帰路は太平洋側を廻って上方で雑貨を仕入れるといった全国を大規模に巡る商売も行われていた。それには波方と並んで県下二大海運の町と呼ばれていたように造船術・操船術に優れ、船乗りも多かった事も寄与した。
 明治30年頃から政府の統制が強くなり、塩の専売制も始まったが以後も石釜から鉄釜へ、昭和に入ると専用の大規模な製塩工場の建設により大量生産が行われた。戦後も周囲の塩田が廃止される中県下では最後まで残り、昭和46年に操業を終えた。
 島東部の木浦港は深い入江により風波から守られ、また港背面に小高く見とおしの良い丘があり水軍の拠点になったことが納得できる。行政機関や商店も多く、島の中心集落となっている。古い町並として連続した箇所は少ないものの、かつて製塩や海運で潤っただろう名残が所々に残っている。一部には広い敷地内に入母屋屋根の堂々たる邸宅も見られた。
 また昭和の商店街を思わせる一角もあったが、営業されていない店舗が多いようであった。
 
 




古い町並としての連続性は余り高くないが一部に趣のある路地風景も残る

訪問日:2018.06.30 TOP 町並INDEX