加賀の海岸線は砂丘地帯が多く、円弧を描いたようになだらかである。その中にあってこの加賀市橋立の周辺は幾分か出入りがあり、港の立地に格好な地形であったようだ。江戸期から明治にかけて北前船と呼ばれ大阪から西廻りで日本海を北上した商船の船主が、この地に大きく台頭した。 ここで紹介する橋立と瀬越は、明治・大正時代に日本一の富豪村と称されていた。年間数万円の収益を挙げた船主が何人も居たのである。当時の商人の年収が平均数百円であったことを考えるとまさに桁外れの豪商達である。 橋立の蔵六園はもと北前船主・酒谷家の屋敷である。通りを挟んで蔵が7棟、敷地は板塀に囲まれ、この一軒で町並を形成している。建具は全て紅殻塗りとなっており、藩主専用の便所は漆塗りという端部まで贅を極めた豪邸であった。 この橋立には現在でも十余軒の船主屋敷が残存している。当時の大聖寺藩にとって、この橋立の北前船主の存在は得がたいものであった。「百万石の分家」ということで格式にこだわり、浪費家の藩主が続き、財政が逼迫する度に彼らに献金を求めたという。藩は有力な船主を士分格に登用したりもした。中には梶屋与兵衛、西出孫左衛門などのように武士として大聖寺城下に居を移した者もいた。 |
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橋立の蔵六園。代表的な船主屋敷です。 | |
蔵六園の内部。蔵六とは亀の異称で、大聖寺藩主が亀にそっくりな庭石に目を留めたことが由来と言われます。飛び石は船によって各地から持ち込まれたものです。 |
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北前船の里資料館として公開されている船主・酒谷邸。同じ酒谷家でも七代目長兵衛の屋敷です。 | 橋立の町並 |
一方、橋立の南西部にある瀬越は、加賀の藩米、九谷焼などの産物を積出した大聖寺川の河口港・塩屋の上流側に位置している。ここは名立たる北前船主が大勢拠点としたところであり、蝦夷地の交易にも乗り出していた。 |
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大聖寺川河口近くの瀬越に辛うじて残る大家邸。 | |
大家邸の土蔵群 |
訪問日:2003.11.02 | TOP | 町並INDEX |
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