飛騨神岡の郷愁風景

岐阜県神岡町【産業町】 地図 <飛騨市>
 
町並度 6 非俗化度 8 −鉱山を基盤に商業町へ発展した奥飛騨の町−





神岡(船津地区)の町並


 飛騨地方の北東端、富山県に接する神岡町。かつては国鉄神岡線が富山側にあたる高山本線猪谷駅から伸びていたが、第三セクター方式による運営に切り替えられた後に廃線となっている。
 高山からも険しい峠越えを経て小一時間ほどかかるところであるが、市街地は意外なほどの広さを持ち、また活気が感じられるという印象であった。
 天正13(1585)年に飛騨に入部した金森長近は、秀吉・信長の富国政策を受けて地下資源の開発を重点に置いた。神岡といえば鉱山とイメージされるほどの産業町で、それはこの時代に基盤が醸成されたといってよい。中世には既に茂住銀山・和佐保銅山が開発されていたが、先鋭的な精錬法を導入し飛躍的に生産量が増加した。それは中国・朝鮮から伝来した灰吹法、また欧州から伝わった南蛮絞法と称される精錬法である。採鉱方法も大規模に間歩と呼ばれる坑道をうがって山金・山銀と呼ばれる鉱石が得られるようになり、16世紀末の文禄期の頃には上町・下町・大工町と町立てされ、傾城町と称する遊女町まで存在していたという。
 鉱山は一度衰退・荒廃したが、江戸幕府は飛騨の郡代を通して両鉱山の復興に力を注がせ、特に和佐保銀山は幕府直営として増産につとめた。
 19世紀初頭頃、現在の町の中心に当たる船津の戸数280、人口は1300人を数えていた。それは鉱山の隆盛のほか、商業が発達したことも大きく、その要因となったのは周辺一帯で盛んになった養蚕業であった。収益は現金となって農家へ還元、豊かになった一部の農家・商家は製糸業を営んだり、紬を織って京都へ出すなどして財力を蓄積していった。また陸上交通が発達するにつれ、ここを通過していた越中東街道に宿駅機能が加わったという。同街道は飛騨と越中を結ぶものであった。
 明治以降民間による経営となり、以後も鉱山の町として発展を続けたが、戦後には資源の枯渇や合理化による閉山、公害病の発生などもあり、2001年に採掘が打ち切られている。
 
 










 神通川支流・高原川沿いの小盆地に開ける市街地のうち、古くから開けた左岸側の船津地区には広範囲にわたって古い町並が展開している。出桁のせがい造り、切妻平入りといった飛騨地方らしい造りで、建物の連続性が高いのが特徴だ。鉱山や商業の栄えで狭い平地に多数の家々が密集したさまが感じられる。江戸期にまで遡るものはなく建物は比較的新しいものの、家々が多数連なることで古い町並らしい佇まいを感じることができる。一部には木造三階の建物も見られた。また、二階部の木製欄干、門構えなどから遊興の一角であったらしい風情の感じられる地区もあった。
 古い町並として紹介される事も全くなく、情報も乏しい中での探訪となったが、このように旧市街地の多くが伝統的な建物で占められており、驚きの訪問であった。特に規模の面で貴重な町並だといえる。旧神岡線の路盤はサイクリングロードとして親子連れなどに人気であるが、市街地には外来者の訪れは少ないようだ。地元がもう少し意識して、商家や飲食店、旅館などの建物資源を生かす活動を展開すれば面白いものになるかもしれない。
 




高原川右岸には崖家造りも見られる 右岸側の東町の町並

訪問日:2018.08.12 TOP 町並INDEX