熊本市川尻【港町】 地図 町並度 5 非俗化度 6 −熊本藩内有数の港町− |
川尻地区は熊本市の南郊外、鹿児島本線で一駅の距離にある。中世には河尻荘と呼ばれた荘園が築かれており、また城も立地していた。 | |
川尻四丁目の町並 | |
川尻四丁目の町並 (瑞鷹酒造付近) | |
川尻三丁目の町並 もと商店だったと思われる小規模町家が多く見られる | |
旧薩摩街道が町域を縦断し、また加勢川の河口付近にあたるという地形上の特徴もあり、古くから港町として開けていた。 藩政時代は肥後藩の軍港として町立てされており、川尻には流域各地の年貢米が集められ、ここで積出されていった。また長崎や大坂などとの商取引が盛んに行われ、穀類のほか醤油、材木などが船積みされ、炭や塩、石炭、綿などが荷揚げされた。また産業として酒や醤油などの醸造業、筆、桶、箪笥、畳、素麺などがあった。殊に酒造業は現在でも瑞鷹酒造の格式高い建物が威容を誇っている。 江戸時代後期の安政期には既に9000人近い人口があり、港を中心とした薩摩街道沿いの商業町として地域の中心地であった。明治以降は年貢米が廃止されたほか、加勢川筋の掘替えもあって河床が浅くなり、鉄道が開通するなど物資輸送も陸上交通の時代となって、川尻は徐々にその地位を低くしていった。 しかしそれでも、戦後しばらくまでは地区の中心的な役割もあったようだ。探訪していると70歳代と思われる男性から声をかけられ、付近の家々はもと何を商っていたところだと詳細に教えていただいた。当時は60軒を超える店舗や商家があったといい、この付近の人々が町に出るとは熊本の市街地でなく、川尻の町のことを指していたのだという。 町の一角を九州新幹線の高架が跨いでおり、時折高速で列車が通過する。一方で年貢米を積出していた船着場の遺構も残っていて、あまりに激しい対比であった。 |
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訪問日:2011.04.29 | TOP | 町並INDEX |
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