疋田の郷愁風景

福井県敦賀市宿場町・在郷町 地図
町並度 5 非俗化度 7 
−琵琶湖と敦賀湾をつなごうと試みた壮大な計画の遺構が残る−




 
水路が街路中央に巡る疋田の町並


 北陸本線の敦賀の手前に新疋田という駅がある。特急列車は全列車通過で普通列車も本数が少ないため、同線屈指の陰の薄い駅となっている。山々に抱かれた静寂の環境で、普通列車に乗ると特急列車の通過待ちで長時間停車することも多い。
 疋田の集落は、駅より北側に少し離れた位置にあり、国道の西側に沿う副道の両側に伸びている。特徴的なのは街路のぼぼ中央に水量の多い水路が貫いていることで、所々幅が広くなり水辺に降りられるようにもなっている。疋田はこの水路に歴史が隠されている町だ。
 江戸期以来疋田は宿場町として経過してきた。琵琶湖の北岸から敦賀湾への往来は、西廻り航路で関門海峡を通るより、敦賀から陸路を選んだ方が大量の物資の輸送には適さないが日数を短縮できる利点があった。それらは塩津浦(現滋賀県西浅井町)で再び水運に委ねられた。また湖西を行く街道との分岐点にもあたっており、交通の要衝でもあった。小浜藩の本陣をはじめ、問屋も数多く建ちならんでいて町場としても大きな賑わいを示していたといわれる。
 ところで先の水路のことだが、これは琵琶湖と敦賀湾を結ぶ運河の計画痕という、壮大なものである。もっとも現在見られるものは復元されたものだそうで、運河というには余りに細く水量も少ない。北前船と琵琶湖水運の併用は、とくに地理的に京都の商人にとって有益であったため、商人達から度々請願が上り、一時は幕府は藩の手により疎水計画が具体化し、一部が着工された。文化13(1816)年に当地に竣工した舟川では米俵などの輸送に使用されたと言うが、天保年間には廃止されてしまった。運河として使われたのはわずか10数年間のみであり、琵琶湖とを連絡するなどということは夢となってしまった。
 水路を囲い、街道集落らしく細長く連なる疋田の町並。常に水の音がし、常夜灯や水辺に降りる石段なども見られる。それらが整備されたものではあっても歴史に縁取られた風情を感じることには変りなく、生活感の強く感じられるところにも好感が持てる。建物は伝統的なものは少なく、古い町並というには新しすぎるのだが、水路を含めた複合的な価値から町並として取上げたい。
 






 



訪問日:2007.10.13 TOP 町並INDEX