彦根の郷愁風景

滋賀県彦根市<城下町> 
 
町並度 6 非俗化度 4 −近江を代表する城下町−
地図
(彦根城南側付近) 地図(七曲り・芹町付近)





彦根城南側(本町)の町並 彦根城南側(本町)の町並


 滋賀県湖東地区北部の中心である彦根市は、現在は桜の名所としても有名な彦根城の城下町としてその基盤が作られた。中世には東部の丘陵地に佐和山城があったが、関ヶ原の役後、井伊氏が琵琶湖に面した平山城として彦根城を築城した。完成は元和8(1622)年のことであった。
 彦根藩の領域は湖東北部から湖北一帯が押えられ、さらに下野・武蔵国にも飛地を持つなど最盛期には35万石の格式とされた。
 僅かな耕地と沼地などの低湿地帯であった彦根城一帯は、丘陵を切崩して沼を埋め立て、芹川を改修し、農民に移転を命じた上で家臣や町人などの居住区を計画的に配置し、町を整備したものである。町は三重の濠に囲まれ、一番内側に城郭、そしてその外側の内曲輪、さらにその外周に武家屋敷と町家を配した。町家はその外にも大きく展開し、17世紀末の元禄期に記された井伊家文書では、大工126戸、米屋110戸など桁違いの商家数が記録され、その他煙草屋、油屋、酒屋など無数の商人が存在し、大きな町を形成していた。
 したがってこの町には広範囲にわたって古い町並が残っている。さすがに京阪神都市圏の外縁部にあたっているため近年の都市化により多くの地区では当時のままの伝統的な町家は失われているが、城の南側、本町・城町付近では比較的程度よく残っており、連続した町並風景も一部に見られる。路地も短冊状で直交する辻が多く、街路形態もよく保存されている。袖壁が両端に配された町家が連なる風景は、通りに立って見渡すといかにも城下町の町家らしい気品が感じられた。
 一方でこの地区の東側に、彦根城の南口から連続している南北の通りは随分観光地され、発作が起ったように喧騒が支配している。再開発により夢京橋キャッスルロードと名付けられた通りには店舗が並んでいるが、それが古い町並調に整えられているのが心憎い。しかしこの外来者目当ての一角は、横道の本来の姿をした町並にも一部侵入しつつあるようで、それは絶対にやめていただきたい。
 かつての城下町の外縁部では中山道につながる街路上に線状に展開した町並が残っている。城下には7つの入口があって、それぞれ番所が設けられていた。
 芹川の南岸に残る「七曲り」は古くより彦根名物として名高かった仏壇・仏具街として繁栄を見た地区であり、城下への主要な入口となったルートでもあった。この通りは、江戸中期に武具などから仏壇作りに転向した職人が結集したところで、現在でも仏壇・仏具屋の多いのに驚かされる。七曲りの名の通り何度も屈曲しながら続く町並は、町家建築も多く、袖うだつを従えた酒屋もあった。芹川にかかる中芹橋の南東から1km近くに渡り残っていて、先の本町・城町を凌駕するほどの古い町並が展開していた。
 一方、芹川を挟んだ北側の芹町にもやや小規模だが中二階・袖壁の町家が連なる筋がある。これも城下から中山道に連絡する道筋だったのだろう。西に向うと「花しょうぶ通り」から商店街となりどの辺りが城下への入口だったのか定かではない。
 このように城の近辺のみならず広い範囲にわたり町並が残っているということは、当時のこの町の大規模さを物語るものとして充分であろう。城を含めできれば半日ほどはかけてじっくりと廻りたいところだ。
  




七曲り(大橋町)の町並 七曲り(大橋町)の町並




七曲り(沼波町)の町並 芹町の町並



芹町の町並


 
訪問日:2005.04.16 TOP 町並INDEX