平戸の郷愁風景

長崎県平戸市<港町> 地図 
 町並度 6 非俗化度 4  −対外貿易で栄えた港−

         

崎方町の町並




浦の町の町並 宮の町の町並




 崎方町の町並
 

 
平戸島へは九州本土から平戸大橋が結んでおり、訪問するにあたっても島という意識は薄い。
  古くは「庇羅」と記されたといわれ、その後狭い海峡を示す「戸」が付されて平戸と呼ばれるようになったといわれている。古代より海上交通の拠点として重要な位置を占めていて、かの遣唐使船は博多津を出航後の最初の寄港地となり、港としての歴史は極めて古くから刻まれてきた。
 中世には平戸松浦氏の領するところとなり、その勢力は佐世保方面や壱岐島にも及んで強大な戦国大名の一つとなっていた。平戸は外国の諸船が多く寄港するところとなり、特に中国や朝鮮との取引が盛んであった。その賑わいは京や堺の商人が集まってくるほどであり、その後ポルトガル人の来航により、欧州にも開かれ一大貿易港であった。松浦氏は対外貿易にも積極的であったため、オランダや英国も平戸に商館を置くなど国際色を濃くしていった。彼らのおかげで藩は裕福であり、米や麦などの農産物をはじめ産物を高額で取引できる特権も得ていた。その後少なくとも長崎出島に対外機関が集約されるまでは、平戸はわが国最大の貿易港であり続けた。
 重要な歴史遺産は数々の史跡、そして貿易により持ち込まれた教会などの建物に求めることが出来る。史跡巡りとともに、それ以後の港としての栄え振りも町並風景として残っており、町を歩いた表向きの顔は、対外貿易が盛んに行われて以後の商港としての姿であろう。
 近在の離島とを結ぶ現在の平戸港の後背地には、廻船業その他により栄えた商家の建物が林立している。平入りで統一されたそれらの家並は古い町並を形成し、近年になって意識され整備されたことが歩いていると伝わってくる。聞くところによるとこの5年間ほどで保存事業が行われ、修景が行われたのだという。特に港より東の崎方町付近では一見保存地区と見紛うほど体裁が整えられていて、この町の意識の高さがわかる。
 対外貿易を基盤に、江戸期以降も重要な港町として息づいてきた平戸の町並としての存在意義は重いものがある。今の所観光客におもねるような店舗は見当たらないが、そのような方向に傾かないことを切に願う。 
 
 





聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂(右)丘に立つ教会の麓には趣のある路地風景が展開する



オランダ橋と呼ばれる元禄期に建造された石橋

訪問日:2010.08.15 TOP 町並INDEX