平野の郷愁風景

大阪市平野区<商業都市・寺内町> 地図
 
町並度 4 非俗化度 5 −水陸交通拠点の商業町であった−




平野には二つの家並の顔がある。まずは最も古い町家建築。数は多くないが中二階の姿を保つ伝統的な姿だ。





もう一つは昭和の町並である。大阪名物ともいえる袖うだつ調の両側の突起物や銅板葺の家屋(左)、長屋風の木造建築の連なる路地(右)など下町的な風情が濃く漂っている。


平野の町は細い路地が行き交い、明治から戦前にかけての町家や住宅がその至る所に残る。路地は直行する辻は多くあるが碁盤の目のようには整然とした姿ではなく、袋小路も存在し迷いながら歩いてみるのも楽しい。
 古い町並は主にJRと地下鉄の平野駅を結んだ線より東側、国道25号線より南側に残る。幹線道路沿いは近代的な商業地でありビル建築が支配しているのに、この路地区域に入ると高い建物は姿を消し、下町風景というに相応しい家並が広い範囲に展開する。あるものは平入り中二階形式の伝統的な町家、また他のものは二階正面を銅板に被われ、大阪の市街地でよく見られる独特の袖うだつ状の壁を両側にせり出した住宅、そして戦前に建てられたらしい木造の長屋などが見られる。雑然とした中にも深い歴史が感じられ、都心に近い位置にあっては極めて貴重な展開を見せる町といえる。
 今では全くそのような面影は失っているが、ここはかつて舟運の拠点、川港であり、また町中は環濠で囲まれていた。現在も残る平野川から濠内に水を引入れ、物資のやりとりを行っていたという。もともとこの濠は政治的なもので、元和期(17世紀前半)に将軍の命により町割が行われると同時に建設されたものである。平野郷町とよばれたこの町では末吉氏が代官に任命され、時の将軍との結びつきも強かったという。後に廻船業を営んだ豪商に成長している。
 また各方面からの街道がここで交差し、人の往来の上でも一つの要となっていた。
 河内地方や大和盆地で盛んに生産が行われた綿花栽培を背景に、木綿・綿実の取引が盛んで、また菜種油の生産も盛んで、それらを根幹とした商業都市として繁栄していた。
 環濠も全て潰され、また大阪市街に吸収されてその輪郭は失われている。ただここが古くからの町であったことは、その町割や家並の雰囲気から容易に察することが出来る。地元ではこの町の魅力を感じてもらおうと、町ぐるみ博物館として、平野の町に関する庶民的なものをテーマにした小さな展示館をあちこちに設け、訪ねる人も増えている。ただ私としては、それらを訪ね歩くベースとして今後も古い町並が健全な姿で残されてこそ、価値のあるものだと思う。





訪問日:2006.04.29 TOP 町並INDEX