広瀬の郷愁風景

島根県広瀬町<城下町> 地図
 
町並度 5 非俗化度 7 −栄枯盛衰 数々の悲運も越えて今に伝わる城下町−
 






   町並のシンボルとも言える吉田酒造






 広瀬町は、県東部の安来市から飯梨川を遡ったところにある。現在の町の風景は地方の小さな田舎町といった印象であるが、歴史は非常に古く、そして波乱万丈という言葉そのものであった。
 中世ここは富田荘と呼ばれ、町の東を流れる飯梨川を挟んだ小高い丘に、富田(とだ)城が築かれていた。周囲からの比高以上に、自然の要害ともいえる独立峰は能義の平野を見渡せ、敵の侵攻を見定めるに充分なものであった。
 鎌倉時代から長い間、ここは出雲国守護の居城であった。以後、戦国時代大名尼子氏が入城すると、山陰・山陽を制覇して軍事的基盤を固め、経久の代に隆盛期を築いた。中国山地で産出される鉄を背景に大きく栄え、中国地方の中心だったと言っても過言ではなかった。
 富田城を落とすことは山陰・山陽の広大な領地を手中にするに等しいことであった。天文14(1545)年、経久が没し孫の晴久の代となると、周防の大内氏との戦い、そして石見から攻め込んできた毛利元就との戦いにも敗れ、残党の抵抗空しく瞬く間に凋落していった。
 以後毛利氏の手中に納まった富田城だが、その頃、城の価値は以前と比べかなり低下していた。周囲を取り囲む山々は火砲の発達のためかえって攻撃に適した地形となり、川も上流の砂鉄採取などによる土砂の堆積により水運としての利用が困難なものになっていた。城下町を拡張するにも土地が狭く、毛利氏は富田を捨てて松江を新しい城地とした。
 「思いがけない松江が出来て、富田は野となる山となる」という里謡も伝わる。
 富田は城下町としての価値を失い、寛文6(1666)年に発生した大洪水はそれを決定的なものにした。当時の町並は濁流に飲まれ、流路を大きく変えた。現在の飯梨川(当時の富田川)河床からは城下時代の多くの遺跡が発見され、それを如実に裏付けるものとなっている。
 町名も広瀬と改名し、再建された町には松江藩の支藩として陣屋町が形成された。現在に伝わる広瀬絣などの伝統産業はその頃栄えたものだが、かつての繁栄とは程遠く、大正4(1915)年の大火でそれも消失した。
 今、飯梨川の流れはおとなしく、町を丸ごと飲み込んだような暴れ川にはとても感じられない。町並は独特の赤瓦を葺いた家並が続き、出格子が多用された伝統的な町家も多く残っており、幾度と無く再建された中でも頑なに意匠を守り続けているような感があった。波乱に富んだ歴史を内包していることを全く感じさせないような、平和で静かな町並が続いている。
訪問日:2003.06.01
2013.10.14再取材
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