常陸太田の郷愁風景

茨城県常陸太田市<城下町・在郷町> 地図
 
町並度 5 非俗化度 7  −古くからの街は細長い丘の上に開けていた−





(左)西二町(右)西一町の町並 
 
 
水郡線の上菅谷という駅から支線がこの常陸太田に達しており、水戸からは30分余りである。
 その駅前に立つと北側に小高い部分が見える。市街地の地形は非常に特徴的で、幹線道路や市役所のある周囲との比高約20mの馬の背のような高い土地が市街の東西を分けている。20mとはいってもかなりの急傾斜であり、直線的に駆け上がる街路がいくつかあるが、上から見ると半ば絶壁のように見える箇所もある。これは久慈川の二本の支流間に取り残された残丘で、通称鯨ヶ岡とよばれている。
 しかも、この細長い尾根状の部分こそが、古くからの町の発達した地区であり、そこがまた特筆されるところである。
 歴史は平安期にまでさかのぼり、その頃から土着していた佐竹氏による太田城築城、城下町の建設がおこなわれた。ところが関ヶ原の合戦で石田方についていたことから、慶長7(1602)年に秋田にとばされてしまい、太田は徳川家の支配下となり、水戸藩領として経過した。城下町としての歴史は江戸初期に終了したのだが、この町の基盤はそれまでに完成していたといってよい。
 太田は藩域西部の内陸部との中間点にあり、また棚倉街道が南北に貫いていたことから鯨ヶ丘には商家が林立し、在郷商業街が発達した。2と7の日には市が開かれた。また宿駅の機能もあり、人々の滞在集結するところともなったことから、物資の集散地となった。紙、煙草、コンニャクなどの特産物が集められ、太田の問屋が江戸や大坂その他に売り出していたという。逆に江戸方面から買い入れた品々を磐城・会津方面へと転売、中継することも行われていた。また比較的海に近い位置にあったことから海産物も取引され、藩域西部に出荷されていた。
 明治以降、一時幹線鉄道(現在の常磐線)が通る計画もあったが中止となり、地元の有力者による法人創立により水戸との鉄道が敷設された。後の水郡線だが、常磐線のルートとならなかったことがかえって風情ある町の姿、商家群を残す結果となったのかもしれない。
 登録有形文化財に指定された洋風の旧町役場をはじめ、重厚な漆喰塗屋造りの土蔵や店蔵などがあちこちに残っている。主に尾根筋に沿う南北2本の街路に伝統的な構えが目立つ。そしてその片側は急坂が麓とを結ぶ。十王坂、板谷坂など名前が付いたものもあった。
 ただ、少なからず目に付くのがブルーシートなどで覆われ、補修中の姿であった。東日本大震災の影響が未だに残っており、なかなかその傷跡は消え去らないようである。特に十王坂の頂上にある土蔵建築は町を象徴する風景とも言える中で、傷んだ外観は痛々しく、早く元通りの姿に戻ってほしいものである。 
 



西一町の町並

西二町の町並(十王坂頂上)



東一町の町並




内堀町の町並

訪問日:2014.05.04 TOP 町並INDEX