比和の郷愁風景

広島県比和町在郷町 地図 <庄原市>
 
町並度 5 非俗化度 10 −鉄産業や陰陽連絡の拠点で栄えた町−


 

比和の町並




 比和川に沿って大きな土蔵が残っていた
 

 比和町は県北東部、町域の9割を山林が占める典型的な山間の町で、江の川の支流比和川に沿って極狭い平地が所々に開け、集落が散在している。主邑の比和は小さいながらも町としての体裁が整い、商店や地区の行政機関もある。
 比和川の左岸に細長くのびる市街地は、国道432号線が川の反対側に建設されたために旧態を留める。平入りの木造建築が軒を接して連続し、一部は中二階形式を守り、また袖壁を有したものも見られ古い町並としての姿を残していた。ただそのまま商店街となっているため、一階部分はほとんど改装され、格子などの伝統的な意匠は見られなかった。
 商店街とはいっても店舗として営業しているものは僅かしかなく、開放的なアルミサッシがはめられていたりすることで商店だったであろうことを推測できる程度である。街灯が設置されていて、その支柱には数少ない店舗名が宣伝されているが、車で20分余りの庄原市の店の宣伝も目立った。最近では極日常的な品物以外は、車を使って庄原市街で調達するに違いない。
 しかし、この比和は戦後しばらくまでは活気ある町だった。はるか以前には、この地方一帯の一大産業であった製鉄業、砂鉄採取業の核心地でもあった。『芸藩通志』にも「業は農を専として別産なし」としながらも、「地により鉄鉱炭焼をなすもの少なからず」と記録され、基幹産業であったことが触れられている。幕末にかけて藩の事業として取組まれ、この比和は生産物の貨物輸送の拠点となり、また陰陽連絡も盛んになって宿場町的要素をも帯びていたという。
 明治以降も官営広島鉱山として一帯の鉄山の経営が行われていたが、八幡製鉄所の創業などもあり和鉄の地位が低下し、後期には衰退していった。以後は近隣の物資の集結所、山陰との連絡路の一端の街道町として位置づけられていた。確かに備後地域としては珍しく、山陰を思わせる赤褐色の瓦が半数近くを占めるのも、それを証明しているようだった。
 比和町を含む中国山地一帯は全国的にも過疎化が最も顕著な地域の一つで、第二次大戦後のピーク時からは人口は半分以下に急減している。町を歩いていても人の往来は少なく、商店街と呼べる賑わいはすでに失われていた。今後も衰退の方向に向かい続けることは間違いないだろう。せめて、その速度は緩いものであってほしいものだ。
 





訪問日:2007.06.17 TOP 町並INDEX