田代の郷愁風景

佐賀県鳥栖市【宿場町】 地図
 町並度 4 非俗化度 8  −対馬藩の代官所が置かれた長崎街道の宿駅−




田代新町の町並

 

 長崎本線を分岐する鳥栖から鹿児島本線で博多方面に一駅の田代地区は古くから交通面・政治面で重要な位置を占めていたところである。
 現鳥栖市域の東側は江戸時代には対馬藩領に属しており、田代には藩の代官所が置かれ領域の統治が行われていた。御屋敷とも呼ばれた代官所は現在の田代小学校の辺りに相当し、邸内に諸官の居宅が建てられ、複数の倉庫や白洲もあったという。
 長崎街道が横断していたことから近世以前から町場化されていたともいわれ、江戸期には宿駅として街道集落が発達した。久留米・日田方面への枝道が分岐するところでもあり商業も発達し、毎月3・6・9の九斎日に市が開かれていた。元禄12年の記録によれば、薪や野菜、縄筵類、魚介、茶、紙、煙草、穀物など多岐にわたる商品が取引されている。また町内の株仲間には酒屋や糀屋、紺屋、鍛冶屋、塩屋その他多くの商売が許可されていた。
 通過する大名、長崎奉行などの役人などの泊る上使屋という格式の高い宿屋のほか、多くの旅籠があり旅人でも賑わった。駅馬の数も最大80頭に及んだという。
 産業としては売薬が有名で肥前売薬の名で知られ、幕末には薩摩を除く九州全域から西日本各地へと販路が拡大した。明治以降も続き同39年には53人の売薬人を数え、大正に入ると製薬会社も設立された。
 旧宿場町の町並は旧長崎街道上の代官町交差点付近から始まり、上町・新町・昌町と続き東は鹿児島本線の踏切近くまで続いている。残念ながら連続性は低く、新しい建物の間に散在している程度であるが、質的には高いものも残されている。多くは妻入りの姿を示し、左右にしころ庇を従えた独特の構えを持つ旧家も複数見られた。寺社が多いのも歴史ある町であることを証明していた。
 代官所跡をはじめ案内板も整備されており、街道町を意識されている様子がうかがえた。




田代代官町の町並





田代昌町の町並

田代新町の町並



訪問日:2021.01.03 TOP 町並INDEX