保戸島の郷愁風景

大分県津久見市【漁村】 地図 
 町並度 7 非俗化度 6 −マグロ遠洋漁業での収入を糧にRC造りの密集漁村集落が形成された−




(左)港から集落を望む (右)港南側のわずかな平坦地部分 保戸島はこの二つの異なる姿で集落風景が展開する


 保戸島は津久見市に属し、津久見湾の入口に位置し島の東側は豊後水道に接する。西側は地図を見ると市域南部の細長い半島と地続きであるかのごとくに見え、島からもすぐそばに陸地が見えるのだが橋や連絡船はなく、市街地にある港から1日6便の船便で結ばれている。




平地部分の路地風景




斜面方向の路地はほとんど階段となり横軸もテラスのような張出し構造になっている箇所がある





三階建の建物も階段下から見上げると塔のようにも見える


 この島の印象について最もよく語られるのが港から望む集落風景である。平地は極わずかでほとんどが急斜面に展開し、典型的な密集型漁村集落なのだが、特殊ならしめているのが家々の姿だ。漁家建築でイメージされる小柄な木造建築ではなく、RC造りの建物がほとんどを占め、そしてその多くが3階建である一部は4階建のものもみられる。雛壇状というより斜面迷路状とでもいってよい狭く複雑な路地にそのような「立派」な建物が連なるというのは、島の集落に限らず他ではまず見ることの出来ないものである。生コンや鉄筋その他資材の搬入は相当な困難を伴うものだろう。
 江戸期から漁業を生業としてきた島で、文化7(1811)年の記録では619人を擁し大庄屋格の庄屋が支配し佐伯藩の勘場、海産物問屋や遠見番所などもあった。近隣の海域で鯵やイカなどを漁獲していた。
 明治以降、保戸島の漁業は飛躍的な発達をみた。漁船の能力が向上するとともに続々と遠洋漁業に出漁し、マグロ漁を行った。漁場は太平洋上の広範囲に及び、三陸沖から紀州沖、さらに南西諸島沖合からミクロネシア方面にまで及んだ。
 昭和初期あたりには保戸島のマグロはえ縄漁に関しては日本一と評され、島民はそれを誇りに立派な家々を競って建てたという。狭い土地に多くの家、それも見栄えのするものを建てるために、多層階となったのは自然の流れだったのだろう。この独特なRC建築群は、はえ縄漁における漁民の技量、それに伴う収入の豊かさ、そして漁民の心意気が造った集落風景と言ってよい。

 集落は港付近では斜面を駆け上がる立体的な展開を見せ、南側ではわずかながら平地があり商店や理髪店など店舗も見られる。集落を見下ろす位置に二つの寺があり、その背面は広大な墓地となっていた。この付近から見る集落の風景も港から見上げるものとは異なり迫力と個性があり、袋小路に迷いながら巡るのも好奇心が掻き立てられるようで面白いものがある。
 島内で四輪車は軽トラックを数台見たのみで、それも走れるような道は海岸沿いの極わずかで、用途はせいぜい数軒見られる店の人が港から荷物を運ぶくらいだろう。かといって自転車や単車も路地が狭く階段が多いため使えるところは限られる。そこでよく眼にしたのが押し車と背負い籠であった。特に籠がこの島では最適に見えた。また印象的だったのはこの狭く険しい集落の随所に井戸が見られ、一部は今でも生活用水に使われているらしく澄んだ水が湧き、盥や桶が置かれていた。
 島へは外来者の訪問もあるようで、集落景観とともに歩いていると島民よりはるかに眼にする機会の多い猫を目当てに訪れる人もあるようだ。ただ集落の姿に外向きにあしらわれたような雰囲気はほとんどなく、その点は好感が持てるものであった。
   
訪問日:2018.11.23 TOP 町並INDEX