高屋は現在の井原市の西部、すぐ西を広島県と接し、藩政時代には山陽道備中国最西端の宿場であった。
宿駅としては石見地方の銀を輸送する道筋との合流点であり、「右高屋宿山陽道継場にて、石州御銀御登り継場往還御用(中略)相勤来候処」と、18世紀当時の文書にも紹介されている。備中でありながら幕府領備後上下陣屋領であったことも(上下は石見の銀輸送の重要な拠点であった)、それが裏付けられる。
旧街道が国道313号線から北に外れたことも、この町並を旧山陽道時代の面影を多く残す結果につながっている。道幅は当時のままで普通車が離合するのがようやくといった広さであり、その両側に伝統的な町家建築がある程度まとまりをもって残っている。漆喰塗り込め、ナマコ壁、虫籠窓などに特色があり、明治以後に建てられた総2階建ての重々しい商家の建物も残っていた。ここは周辺で盛んだった綿花栽培をもとに織物産業でも栄えたところで、それらの豪商だったのだろう。中でも町並の中央には、堂々としたむくり屋根(空に向って緩やかに膨らんだ屋根)を持ち、一段と存在感を示す旧家が一際存在感を顕している。この大塚家をはじめ多くの伝統的な家屋は本瓦を葺いていた。産業集落としての発展は維新後も続いたらしく、洋風建築が残っているのもうなづけた。
街路に対して斜に構えた建て方となっているのも街道集落らしい。近くの矢掛宿などと比べると地味な印象であるが、それだけに手が加えられずに自然体の町並が見られ、町家が町の風景に自然に溶け込んでいた。
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