揖斐川の郷愁風景

岐阜県揖斐川町在郷町・陣屋町】 地図 
 
町並度 6 非俗化度 7 −揖斐川の谷口集落として商業が栄えた−






 揖斐川町は文字通り揖斐川の流域に展開し、町の中心は流れが山地から平野に開放されようとする位置にある。いわゆる谷口集落として古くから人家の集積があった。
 揖斐川の町並








 戦国時代は揖斐荘が存在し揖斐城が構えられ、眼前に広がる濃尾平野の北西の軍事的拠点となっていた。関ヶ原の戦いを経て、西尾氏が城主として転封されて以後、町の体裁が整えられたとされている。城はその後廃されたが、引続き陣屋が置かれ、美濃国奉行岡田氏の統治により維新を迎えることになる。
 町場の構造は江戸期初頭にはある程度形成されていたといわれ、その頃には揖斐市と呼ばれる市場も開かれていた。1・5・9の「九斎市」であり、流域の山村や近隣の平野部の村々などから客が多く集まり賑わった。江戸後期の記録では、薪炭・酒・味噌・塩・米・油・蝋燭・紙その他多くの商品を取扱う商家があり、髪結(理髪)・風呂屋・宿屋・大工・桶屋などの店舗もあった。陣屋の近くには家中屋敷を置き、一つの完成された町を形成していた。
 その発展を支えたのが揖斐川の水運で、多くの荷船が行き来し、明治初年頃の記録では32軒もの船頭があったという。上流部の諸村、近隣の農村からの物資の集散地であり、ここを拠点に多くの船が下りまた上り荷が陸揚げされた。最盛期には500隻近い船があったという。
 国道303号線の一本北側が古くからの揖斐の町である。切妻平入りの町家が比較的よく残り、それも間口の広い重厚な外観を示しているものが多い。格子や虫籠窓が状態よく残されているものも見られた。また国道沿いの一部にも伝統的な建物が散見される。
 谷口という地形的な特性から集落が発達する要因に満ちていたが、現代においては交通幹線からはずれ、しかしその一方で大都市圏の辺縁部にあたっていることで、かつての繁栄していた姿が大きく乱されることなく、また廃れることなく残されている。
 
 
 









訪問日:2013.08.12 TOP 町並INDEX