起の郷愁風景

愛知県尾西市【宿場町】 地図 <一宮市>
 
町並度 5 非俗化度 7 −木曽川の渡しを控えた美濃路の宿場町−


 起は木曽川堤の町で、付近は川に沿い細長い微高地となっている。そしてその小高い土地の隆起に沿って、伝統的な町家建築の見られる独特の風景が残る。
 ここは東海道の脇往還だった美濃路の宿駅が置かれていた。木曽川は古くから頻繁に氾濫を起し周囲の地形を変えるほどで、交通上の大きな障害となっていた。この起渡と呼ばれた渡し舟は、尾張藩の管掌下に置かれた起宿の舟庄屋が管理し、常備された「定渡船」は二艘であったが、大名行列などの際には近隣の村々から舟が徴用される「寄船」と呼ばれた制度があった。また将軍の通行、何度かあった朝鮮通信使の通過においては、川幅一杯に船を並べる「船橋」が設けられたという。通信使の渡河の折には実に277隻の船を集めて架設されたという記録が残っている。これほどの船を、どこからどうやって集めたのか想像に絶する。
 大名通行にそなえ本陣・脇本陣それぞれ1軒を有していたほか、弘化年間(19世紀中盤)の記録では旅籠や木賃宿などの宿泊施設14軒、船頭19軒、往還人足や川揚中瀬稼と呼ばれた渡しの雑役に従事していた者22軒など、木曽川の渡しを中心として、宿泊業務に携わるものが多数存在していたことを語っている。殊に木曽川が増水などして、「川留め」になった場合には多くの旅人がこの起宿に釘付けとなり、宿屋は大層繁盛したものと察せられる。 
 

 また産業も織物産業が幕末以降発達してきて、特に毛織物はこの地域の中心を占めるほどに発達している。渡し場はそのまま近隣からの荷揚場ともなっていて、上流側からは瓦や薪炭、木材、紙など、下流からは酢や醤油、酒などが積上げられた。逆に毛織物はここから積出され、各地に送られていったのである。
堤防に沿う起の町(小さな交差点の左右が旧美濃路、堤町)
堤町の町並



堤町の南端付近。ここで下り坂となり、以南は堤下に展開する。




下町の旧脇本陣(現一宮市尾西歴史民俗資料館)とその中庭


 町は大きく南より上町・下町・堤町に分けられ、下町の歴史民俗資料館は脇本陣の建物を利用したもので、間口の広い切妻平入りの主家に入ると、美しい日本庭園が眼に入った。
 主に古い町並の見られるのは下町から堤町にかけてで、町名の通りその境付近で街路が一段高くなり、堤防上の道となる。町家の密度が未だに濃く保たれているのも、ここが大きく新道として開発されることなく残されたお蔭である。堤町より現在は濃尾大橋がかかり、美濃とを結んでいるが、昭和30年代まではここには渡し舟が健在であり、古き姿を保っていた。
 堤町の堤防下には二階に手摺を設けた遊郭風の木造建築も見られた。川留めの際の旅人の無聊を慰めるものであったのだろうか。この町を歩くと、目前に広がる木曽川の風景とともに、渡しのあった宿駅時代が容易に想像できるようであった。
 


 
堤町の町並



木曽川と濃尾大橋

訪問日:2006.07.16 TOP 町並INDEX