生野の郷愁風景

兵庫県生野町<産業町> 地図 <朝来市>
町並度 5 非俗化度 5 −銀山で繁栄した面影が残る、訪ねる者にも優しい町−





生野の元郷宿「井筒屋」付近の町並 元地役人の家
  

 但馬地方の南端、山深い小盆地に生野町はある。ここが町の規模の割に知名度の高いのは古くから銀山で栄えた地であるからで、開坑は9世紀に遡るともいわれている。確かな史料は天文年間(16世紀半ば)但馬領主山名氏の支配の頃、「銀山日記」として残されているのが最古と見られている。
 その後織田信長が羽柴秀吉を但馬に派遣し、この地を攻略してから政治的に支配・管理される体制が強化されている。慶長5年幕府領となり、奉行所も置かれた。地理的にも播磨との国境に位置していたことから町の南北の入口に当たる所には口番所が置かれ、町場の外縁には堀を穿ち総構えの城下町的な体制に強化している。藩の役人等の主要な人物以外は生野町内に宿泊してはならぬとされ、播磨口番所のはずれにわずかな宿屋街が形成されていた。
 近世初頭には金の産出も多かったと見え、天正期の秀吉書状には「但州金山」とも記されていた。その頃にはこの狭い谷間に2万人の人口(現在の約4倍)を抱えていたといわれ、中心の口銀谷地区には政治機構をはじめ労働者の家屋、作業に必要な道具を鍛錬する鍛冶職などの家々が密集した。
 衰退は早く、幕末には一時休山に近い状態ともなったが、明治期に入って政府はフランス人技師を招いて近代的な鉱山として復活している。明治半ばには宮内省の御料鉱山となり、その後三菱に払い下げられたが、資源の枯渇や公害問題などを招いて昭和48年に幕を閉じている。


 鍛冶屋町の家並。平入りの町家スタイルの家が残り、町並らしい一角です。 鍛冶屋町の町並
塀に囲まれた旧鉱山住宅 生野駅前の町並
 

 
 現在の町中にも銀山時代の繁栄の跡が色濃い。町域北部の山裾一帯には鉱山住宅の跡が何段にも連なる石垣として残り、塀に囲まれた社宅も現存している。また代官に仕えた地役人を勤めた旧家も、重厚な町家の外観を保ち数棟残っている。町の中心の鍛冶屋町と言われた地区には、鉱石掘削に必要な道具を誂える鍛冶職人の他、商人も多数集積したと思わせる重厚な塗屋造りの町家が、街路に面して連続している姿もある。赤味を帯びた屋根瓦を葺いた家が目立つのが特徴で、石見・出雲地方を思わせる家並景観である。これは生野赤瓦と呼ばれ、黒瓦がほとんどを占める但馬地方においては特異な存在だ。
 町の南部銀山川に沿っては代官所に用件のある重要人物の宿泊した郷宿である吉川家がある。屋号井筒屋といい、まちづくり工房と銘打って訪ねる客の情報源として公開されている。この他にも町を歩いていると住む方の町に対する愛着が感じられ、訪ねる方にも親切であるのを感じる。この周辺には本卯建を掲げた家もあり、また遊郭風の木造建築も見られ興味深い町並風景が展開していた。
 路地のあちこちで見られる黒褐色の光沢のある石材は「カラミ石」と呼ばれ、鉱石の滓を固めたもので、今で言うリサイクル品である。塀などに自然に用いられており、生野の一つの名物のようである。
 

訪問日:2004.03.20 TOP 町並INDEX