生野の郷愁風景
(奥銀谷地区)

兵庫県生野町<産業町> 地図 <朝来市>
町並度 6 非俗化度 7 −銀山を基盤とした産業町−


生野(口銀谷)の町並









奥銀谷地区の町並


 但馬地方の南端、山深い小盆地に生野町はある。ここが町の規模の割に知名度の高いのは古くから銀山で栄えた地であるからで、開坑は9世紀に遡るともいわれている。確かな史料は天文年間(16世紀半ば)但馬領主山名氏の支配の頃、「銀山日記」として残されているのが最古と見られている。
 その後織田信長が羽柴秀吉を但馬に派遣し、この地を攻略してから政治的に支配・管理される体制が強化されている。慶長5年幕府領となり、奉行所も置かれた。地理的にも播磨との国境に位置していたことから町の南北の入口に当たる所には口番所が置かれ、町場の外縁には堀を穿ち総構えの城下町的な体制に強化している。藩の役人等の主要な人物以外は生野町内に宿泊してはならぬとされ、播磨口番所のはずれにわずかな宿屋街が形成されていた。
 近世初頭には金の産出も多かったと見え、天正期の秀吉書状には「但州金山」とも記されていた。その頃にはこの狭い谷間に2万人の人口(現在の約4倍)を抱えていたといわれ、中心の口銀谷地区には政治機構をはじめ労働者の家屋、作業に必要な道具を鍛錬する鍛冶職などの家々が密集した。
 
 ここで紹介する奥銀谷地区は口銀谷地区より2km弱山間寄りにある。川沿いに細長く開ける僅かな平地に沿い街村的に町並が展開している。国道が川側に建設されたため古くからの町は保たれたわけだが、閉山後人口の流出が激しく活気がなくなっているとのことである。しかし口銀谷地区では余り感じられない古い町並としての連続性があり、探訪する価値は十分見出すことができる。
 構成する旧家は多くが切妻平入の建物が連なる形となっている。漆喰の塗屋造りが目立つものの、但馬地方独特の黄味がかった色合いのものは少なかった。独特のうだつを立ち上げた家屋もごく一部に見られるのみであった。1階部分の格子は比較的程度良く残されており、土蔵の腰板などとともに木の色合いを濃く感じる町並であった。
 

訪問日:2014.04.06 TOP 町並INDEX

※文章の一部は「生野の郷愁風景」と共通。