稲荷山の郷愁風景

長野県更埴市<商業都市・宿場町> 地図 <千曲市>
町並度 7 非俗化度 6  −善光寺街道の宿場町から一大商業町に発展−




稲荷山(旧中町)の町並 稲荷山(旧横町)の町並 この位置で街路は二度直角に曲る枡形になっている。




稲荷山(旧荒町)の町並 稲荷山(旧中町)の町並


 長野盆地の南部にあるこの稲荷山へは篠ノ井線の駅が設けられているが、町の中心はその南方1.5kmと離れた位置にある。
 町は南北に旧北国西往還が走り、その往還沿いに町が開ける街村の形態だ。北国西往還は中山道の洗馬宿(塩尻市)から松本を経て善光寺門前に達する街道で、別名善光寺街道と呼ばれる。
 この稲荷山は北国西往還の宿駅が設けられ、それを発端に商業が集積し一大商業街として大きな発展を見た。街道を通して麻績など西部や南部の山間地域の産物がここに集まり、また中山道を通して上方からの産物も移入されたこともあり問屋も存在した。天保期(19世紀前半)の記録では綿商人が33軒も存在していたのをはじめ、旅籠屋、呉服屋、豆腐屋等数十種類にも及ぶ商業活動が行われ、善光寺平南部の中心都市として位置づけられていた。
 また宿駅としても、慶長期頃までには宿場町としての体裁が整えられ、北から荒町、中町、横町、八日町と町割され、横町の位置には枡形が設けられた。今でもこの部分では直角に街路が二度折れ曲り、宿場町らしい風景を残している。また街道の東に並行する東町は歓楽街であった。問屋を兼ねた本陣が1軒、馬も常備され、難所猿ヶ馬場峠を控えた西隣の麻績宿などへの輸送に従事していた。
 旧北国街道沿いには平入の町家、土蔵造りの旧家などが多く残り、連続した見応えのある町並を残していた。一部には袖壁が設置され、これは中山道を通して上方や濃尾地方の影響を受けたものなのか。一方で関東地方で良く見られる黒漆喰の重厚な土蔵建築も残り、地理的にも文化的にも東西の文化の混交した地域であることを感じさせた。特に枡形付近からその北側、旧荒町から中町にかけては豪商の家だったであろう間口の広い町家が多く残り古い町並というにふさわしい。中二階の建物は少なく二階の立上りの高いものが目立つことから、明治時代以降の建築が大半を占めているものと思われる。実際弘化4(1847)の善光寺大地震により大きな被害を受けている町並なので、古いものでも幕末のものなのだろう。明治期から大正期にかけてもここは呉服商の一大拠点となっていた。
 その一角に「蔵し館」として公開される町家があった。この町並では唯一の公開された家屋である。展示されていた明治時代の稲荷山の写真を見ると、自転車に乗った人の往来や、街灯の設置など近代的な商業都市だったことを感じさせた。案内の方に聞くところによると、稲荷山ではこれといった町並の保存活動はないそうで、それでもこのような連続した重厚な古い町並が残っているということは、現代の幹線交通路から外れたこともあるが、過去の蓄積がいかに大きなものであったかを語っているようだ。
 町家の連なる家並の西側には、小さな流れに沿って土蔵の連なる風景がある。これらは表通りの商家群の裏手にあたり、物置等に使われていた土蔵なのだろう。本などに稲荷山の風景というと良く紹介される通り、風情のある小路であった。




 街路の裏手には土蔵が連続する風景が残る
 

訪問日:2006.04.08 TOP 町並INDEX