伊予長浜の郷愁風景

愛媛県長浜町<港町> 地図 <大洲市>
 町並度 5 非俗化度 8 −大洲城下の外港−

         



 城下町大洲を経た肱川はここ長浜で瀬戸内海に注いでいる。河口部にほとんど平地を作らず、その為耕作にも不向きであったためかここが町場として形成されるのはかなり時代が下ってからである。近世初頭まで村と呼べるものもなく、葦の生い茂る原野が広がるだけであったという。
長浜を代表する商家建築(末永家)








 元和3(1617)年、加藤貞泰が入城すると城下の外港としてこの河口の地が徐々に整備され、藩の船奉行なども置いて藩船の囲い場も整備した。番所や米蔵など藩の施設だけでなく一般商家も増え始め、寛文年間(1670年頃)には家数200軒余りを数えた。
 肱川流域の荷はここで川船から海運へと積替えられ、物流の要地であったため、藩はこの長浜を城下町に準じた扱いとし、商取引を許している。
 明治になると港湾の機能も整備され、中長距離航路が就航し港町としての位置づけは県下第四位であった。
 現在の長浜の町並は、商業の中心であった本町通りを中心に店舗が並んでいる。近代的な建物に混じりながらも商家を思わせる建物が見られ、古くから港を要とした町の発展があったことを語っている。裏筋や横道にも板張りの渋い家々が所々に残っており、海辺の町の風情を感じさせる。
 中でも国登録文化財に指定された末永家は、間口の広い町家風の母屋を筆頭に堂々たる構えを残している。代々回漕業を営み、明治期には幅広い商取引で長浜一の資産家であった。
 この末永家から少し南、肱川に突当ったところに長浜大橋が架かる。これは昭和10年に開通し、国内では唯一の開閉橋(船舶の通行に合わせて橋桁が上下する橋)であり、名物となっている。また、冬場を中心に大洲盆地の朝霧が川を下ってこの大洲まで到達し、その折強い風を伴うため、肱川あらしと呼ばれ、これも長浜を象徴する風物となっている。
 近代、港町としてのこの町は、河口への土砂の堆積、そして冬の北西季節風がじかに吹きつけ、瀬戸内としては珍しく高波が押し寄せる地形的な不利さもあり、護岸や突堤の崩壊等の被害も多く維持に困難を極めた。予讃本線が大洲まで開通すると、物資は陸路を経由するようになり長浜を素通りするようになった。奇しくも長浜大橋の開通した年であった。
 
 
 

 



 
 長浜大橋


2021.08.再訪問時撮影   旧ページ


訪問日:2004.02.08
2021.08.07再訪問
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