兵庫県出石町<城下町> 地図 <豊岡市> 町並度 7 非俗化度 2 −盆地に開ける但馬を代表する城下町− |
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城下の「内町」に属していた田結庄通の町並。うだつを備えた旧家が随所に残っていた。 | |
出石は城崎とならび但馬地方を代表する観光地とされており、年間100万人にものぼる人の訪れがある。その核心となる位置は有名な辰鼓楼とその北側に連なる土産物屋・飲食店街で、シーズン中の休日には雑踏とも言うべき状態ともなる。皿蕎麦や出石焼など、独自の名産品に恵まれていることも訪ねる人の絶えない大きな魅力となっている。 うどん文化圏の近畿地区にあってこの出石で蕎麦が有名なのは、江戸時代の宝永3(1706)年に信州上田から仙石氏がここに移封された際、お供した蕎麦職人がここに蕎麦打ちの技術を広めたのが始まりといわれる。何しろ町内には50軒もの蕎麦屋があるというのだから大変なものである。この蕎麦を目当てで訪問する客も多い。 奔流のような観光客の流れを少し外れると、この町には広い範囲にわたって伝統的な建物が目立ち、質・量ともに申し分ない古い町並が残っているのに気付く。城下町としての重厚な歴史を感じさせる。 出石城は盆地の山裾に築かれ、仙石氏以前の江戸初期、小出氏の時、その麓を流れる河川を自然の外堀として城下町が建設された。外堀の内側に武家町が置かれ、町人町は外堀の両側に配置され、それぞれ内町・外町と呼ばれていた。現在、出石城跡のすぐ下に谷山川という細い流れがあるが、かつてはこれが町の中心を曲折しながら流れており、外堀の役割を果たしていたということである。外町には北側に豊岡口、西側に八鹿口とよばれた入口を設け、周辺に武家を配し防御を固めていた。自然の地形を巧みに利用し完成度の高い城下町が建設されていた。 かつてこの谷山川は外堀というに相応しいほど広く、城下への物資、年貢米や出石焼などの産物を舟で積出していたというから驚く。 この町の市街地は決して広くはないが、古い家屋はほぼ全域に渡り残っているので時間をかけて丹念に歩く必要がある。碁盤の目調に直交する街路は城下町時代の町割を思わせ、町家建築が随所に見られる佇まいは深い味わいがある。 |
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伝統的な家屋は他の周辺の町並に比べると、但馬地方独特の色がやや薄いようであった。城下町として先進的な町であったので、他地域の文化にも敏感だったのかもしれない。どちらかというと近畿中央部に近い趣の旧家が目立つ。しかしその中にあって、うだつを掲げた姿が眼を引く。その外観には二種あって、一つは近畿地方で多く見られる袖壁の上部に瓦を取り付け、屋根の両端と一体化させたもの、もう一つは屋根端の立上りを優先し、軒下の妻部で斜めにカットしたものである。上田もうだつのよく残る町並だが、蕎麦だけでなく建築様式も伝播していたのだろうか。 出石は度々水害や火災の被害を受けており、中でも明治初期の出石大火とよばれる大規模な火災は町をほぼ潰滅させ、現在残るものはそれ以後に建てられたものだろうが、出石酒造の土蔵だけは焼残ったといわれている。土壁むき出しの武骨な土蔵で、何棟も連続しているので迫力がある。出石の風物詩の一つとしてよく紹介される。 城跡に上ると旧城下町が一望でき、手前に見える辰鼓楼がやはり群を抜いて眼を引く。これは維新後城が取壊された直後、旧大手門の位置に建てられたもので、明治14年には地元の医師から時計が寄贈され、以後時計台として町のシンボルとなっている。 この町は山陰本線建設の際、ここを通すことを頑なに拒んだという。以後は往来の図心から外れることとなったが、そのことが城下町時代の体裁を多く残す結果ともなり、古い町並も保持され続けてきたのだろう。 |
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立派なうだつを構えた旧家 | 土産物屋の犇く町の中心でも建物は伝統的な構えだ。近くには元郵便局の近代洋風建築もある。 |
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蕎麦屋とならび出石焼の店も多い | この路地はかつての歓楽街なのか、手摺付きの開放的な二階部を持つ木造建築が連続する。 |
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「楽々鶴」の銘柄で知られる出石酒造。主屋はうだつを構え、その脇には土蔵群が残り、独特の町並景観を呈していた。 |
訪問日:2006.05.27 | TOP | 町並INDEX |
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