城端の郷愁風景

富山県城端町在郷町・門前町 地図 <南砺市>
 
町並度 6 非俗化度 6 −五箇山との関連性の深い砺波平野南端の町−






 城端(じょうはな)町は砺波平野の南端、南側は五箇山地区とを分ける急峻な山地が控え、峠道を介して古くからの交流があった。五箇山方面からは峠を控えた平野部最初の町場であり、中間交易の町としての発達を見た。
 城端の町並








 城端の町はこうして山間部と砺波平野の接点をなす在郷町として大きく発展をしめした。中世には既に善徳寺の門前町が発達しており、町の基盤が出来上がっていた。中世末期から頻繁に市の立つところとなり、周辺の3箇所の位置が城端に集中し砺波平野南部の一大市場町となった。
 城端町は寛永14(1637)年以後、今石動(いするぎ)奉行の支配下にあり、町年寄・町肝煎・算用聞の町役人三役を置き、自治支配が行われていた。したがって商売も業種ごとに自主的な統制が行われ、売買口銭等を取立てる代表者が任命されていた。
 また地場産業も発達し、特に絹の生産が盛んに行われて上方との取引もあった。小松や大聖寺の絹と並んで加賀絹として知られていた(城端は越中国に属していたが加賀藩領)。さらに五箇山方面の入口という地理的な特性を生かして、五箇山貸商人という特約制度を五箇山の山村と締結した。これは雪に阻まれその往来が大きく制限される冬期に備え、産物の売却を前提に村民への金銭の貸付を行ったものだ。この制度は東隣の井波にも施行されていて、藩はこの2つの町に限ってこれを公認していた。城端には6軒の貸商人がいて、五箇山の農民への生活資金の貸付の代りに、硝煙や生糸・紙などの生産物を独占することによって結ばれ、城端の経済に好影響を与えていた。
 高岡とを結ぶ城端線の終点駅は町の中心から見ると南東の外れにあり、そこから坂を上った先が町の中心部である。かつては商家が所狭しと建ち並んでいたのだろうが、現在は道路が拡幅され、伝統的な建物は一部にしか確認できない。ちょうど連休中の祭の準備が行われていて、賑やかな雰囲気だった。
 しかし、丘の上から少し駅よりに下ったところに、連続性の高い古い町並が残されておりかつての町の風景を存分に感じ取ることができる。平入りの家屋が密集し、この地方独特の2階部分がせり出したようなせがい造りが連続する風景は迫力を感じさせた。
 一方、丘の上のメイン通りを経て反対側の小路には、仏具屋街ともいった独特の町並が展開していて特筆される。町の規模からしてこのような街区が発達するのはとても珍しいのではないだろうか。これはやはりこの町の開祖ともいえる善徳寺の門前町的性格が今なお根強く残っていることを示しており、興味深い。
 
 









訪問日:2013.05.04 TOP 町並INDEX