可部の郷愁風景

広島市安佐北区<商業町・街道集落> 地図 
 町並度 5 非俗化度 6  −街道の集結点・川運の拠点として商業も栄えた−





川が巴になって集うこの地は水運とともに酒造業も盛んであった(可部三丁目 旭鳳酒造)

可部三丁目 「折り目」の北側付近の町並



 可部地区は現在、広島市北部のベッドタウンであるが、出雲・石見からの街道が太田川の水運に変わる結節点として古くから栄えた町である。町の北側は山地が迫り、山陰地方のみならず山陽側内陸部の農村地区の物資もここで積下ろされ、多くが水運に委ねられた。
 当時の町の中心地区は現在国道54号の渋滞時の迂回路ともなっており、非常に交通量が多く、落着いて町並を散策することは困難になっている。しかしそれでも、両端には造り酒屋、醤油醸造所などが多く、近年になって開発された都市近郊の町の風景とは質が異なるものである。







可部二丁目の町並 可部三丁目の町並


 戦国時代には高松城の城下町として存在していた可部の町は、物流が盛んになるにつれ次第に商業町的性格を強めていった。この頃既に市が立っていたとの記録があり、中世前期には本通筋5町とよばれる町場が整えられた。これが現在国道54号線の東側に延びる旧道筋である。
 瀬戸内地域からは塩や肥料としての干鰯、保存食としての塩鰯などをここで船から積上げ、反対に山村からの農産物、煙草や筵などの製品が積出され、またそれぞれ売買された。可部の町では諸職人よりもこうした物資の取引を主体とした問屋や商人が主力を占めており、水陸の交わる交通・経済の要としての重要な町場であった。この発展はもちろん、広島城下を控えた地にあったことも、また大きく寄与していたことだろう。
 産業としては酒造をはじめ、中国山地一帯で産出される砂鉄がここで中継されたこともあり、風呂釜・鍋・釜など鋳物業が盛んであった。
 この旧本通筋に従い平入りの伝統的な町家があちこちに残る。特に防衛対策のため町のほぼ中央に設けられた、当地で折り目と呼ばれる枡形のすぐ北側では、現在でも連続した古い町並として評価できる質と量が保たれている。軒線に程よいばらつきがあるのは建てられた年代、または各家の財力の差によるものだろう。それがまた良い味を出している。
 近世の可部町は街路沿いに九つの小路が派生していた。味噌小路、辻村小路などと呼ばれたそれらの小路は、今は知る人も少なく、風情を嗅ぎ取ることも難しい。だが現存している商家は、それぞれ旧い構えを頑なに受継いでいる。
 この付近の国道は慢性的な渋滞が起り、その抜け道となっているため非常に交通量が多く、落着いた町並探訪は難しい。近年になって遅まきながら建設されたバイパスが、この古い町並のある地区ではなく反対側にルートを選んだことは幸いであった。しかし周囲の丘陵地まで住宅団地の開発が及んでいる一方で、幹線国道のすぐそばに古い町並が残っていることはある意味奇蹟的でもある。
 私は何度もこの町並を歩いているが、最近になって無住の町家を改装し、町を訪ねる人のためのささやかな施設を開かれたり、小さな努力があちこちで見られる。何の対策も行わなければ早期に町並としての体裁が失われる可能性が高い。地道な取組で何とか踏みとどまってほしく、応援したい町並である。


裏路地の土蔵

可部三丁目 「折り目」付近

★印:2007年2月撮影
他:2005年4月撮影

訪問日:2001.11.18
2007.02.25最終取材
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