美川の郷愁風景

石川県美川町<港町> 地図 <白山市>
 
町並度 5 非俗化度 7 −手取川河口を利用した北前船の寄港地−

       



美川新町の町並


 美川町は金沢市内より10km余り南西、日本海に面している。白山山麓に源を発する手取川の下流部に開ける。




美川今町の町並 美川和波町の町並
 

 砂浜海岸が多い加賀沿岸にあって、手取川の河口付近は安全な船溜まりが確保できる貴重なところでもあった。
 中世には今湊の名が見え、慶長期からは美川の旧名である本吉湊と呼ばれた。承応元(1652)年には湊奉行が置かれ、加賀藩大坂回米の積出港となった。本吉は町立てされ、次第に廻船業を営む者、商船相手に取引をする者が増えていった。本吉は加賀屈指の港として、大坂から赤間関を通って日本海各地を結ぶ西廻り航路の拠点として発達し、遠く蝦夷地とも取引が行われていた。江戸中期の記録では、年間1500艘もの船舶が港に出入りしていたという。
 まず南町・中町・北町の三町が成立し、以後拡大を続け17世紀後半の元禄期には10町の町場に発達した。廻船業者や船問屋に限らず、肥料商、四十物
(あいもの:塩漬けした魚)商などの商家も多く賑わった。
 当時は今とは比較にならない重要な港町であったところで、明治になって廃藩置県当初は金沢県であったが、程なくして美川に県庁が移され、このとき属していた郡名をとって石川県としている。後に変遷し最終的に金沢に県庁が戻ってしまったが、県名は石川県のままとなった。この町の重要度が判る歴史である。
 明治後期になって国鉄北陸本線が開通すると、折しも土砂の堆積等で水深が浅くなり港としての機能が低下していたこともあり廻船業は衰退した。
 北陸本線美川駅の北西部、手取川右岸一帯が古くからの町だ。街路は碁盤目状に端正に整備され、面的に広がっている。町家風の切妻平入り、袖壁が左右に見られるこの地方らしい建物が散見されるが、中でも「大正通り」と名付けられた南北の街路には商家型の建物の密度が濃く、古い町並としての体裁が保たれていた。街灯やその支柱に表示された旧屋号などを見ると、地元は歴史や建物を意識しているようだ。「大正浪漫館」と名付けられた古い建物もあった。
 知名度を高めようとするばかりに間違った方向に向ってほしくはないが、古い町並をアピールするに値する質・量を保有している。地味に注目されてほしいものだ。
 




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訪問日:2015.06.14 TOP 町並INDEX