柏原の郷愁風景

兵庫県柏原町<城下町> 地図 <丹波市>
 
町並度 3 非俗化度 5  −織田氏に統治された小城下町−
 




 武家屋敷街の一角は今では多くが更新されている中、所々にこのような土塀、長屋門を構えた旧家が残ります。 柏原藩陣屋の表御殿





陣屋跡から町役場に向う道筋にある土塀に囲まれた旧家  町役場から駅方面に向った辺りにも、横小路にはこのような風景が残っていました。




町役場と大ケヤキ。この古木は樹齢千年ともいわれ、根が小川を跨ぎ木の根橋と呼ばれています。
 


 柏原町は篠山市の北西約15km、旧丹波国に属する山間の町である。今では人口1万足らずの小さな町であるが、江戸時代ここに柏原(栢原)藩が成立していた。
 慶長3(1598)年に織田信包が3万6千石の領主としてここに定着したことに始まり、その後3代目信勝の時に後継者がなく、約半世紀は幕府領であった。しかしその後元禄年間に大和国松山(現在の奈良県宇陀郡)から織田信久が入部し、以後明治維新までここは信長直系の織田氏による藩政の地であった。
 しかし信久入部の折、2万石に削減されたことや、山間の地であり広い耕地にも恵まれることなく、藩の財政は常に安定とは無縁であった。元禄8(1695)年には江戸の火防役や、安永元(1772)年には大和川の普請役を命ぜられたりして困窮し、藩は領内の百姓に毎月定額の醵出金を課したりしてしのいだという。領民は終始、その取立てに追われ苦渋の生活であったといわれる。
 市街地の東部に柏原藩陣屋の跡がある。信久の移封後20年を経た正徳4(1714)年に造営され、表御殿、中御殿、奥御殿をはじめ藩校の崇広館も併設され2万m2の敷地に展開する大規模なものであった。火災に遭ったりして現在は長屋門と表御殿の一部を残すだけとなっているものの全国的にも貴重な遺構である。
 この陣屋跡付近から西、洋風建築の町役場と町のシンボルである大ケヤキの辺りにかけてが旧武家町で、下之小路・中之小路・上之小路などの南北の筋がその中心であった。現在でもそれらの小路の多くは現存し、城下町時代を感じさせてくれるが、家々はほとんど更新され、町並からその面影を嗅ぎ取ることはやや困難になってきている。
 それでも所々に土塀に囲われた厳かな旧家、中二階の町家が見出せる。駅前から続く商店が連なる地区も、もと城下町らしく端正な家々で構成され、深い歴史の上に成り立っていることを思わせる。
 
 
 



訪問日:2003.09.07 TOP 町並INDEX