鞆浦・奥浦の郷愁風景

徳島県海部町【漁村地図  <海陽町>
 町並度 7 非俗化度 9 −南阿波らしい佇まいの漁村−

             

鞆浦の町並


 海部町は高知県との県境に近い太平洋岸の町である。現在国道や海部駅のある付近は奥浦と呼ばれる地区で、それより歴史の古い鞆浦は海岸部に位置する。往時より海部郡の中心であったこれらの地は下灘と呼ばれ、他の上灘といわれる地区と区別されていた。





鞆浦の町並 


 鞆浦は中世には単に鞆と呼ばれ、海部郡の政治的中心の一つとして海部城(鞆城)も構えられており、阿波・土佐国境の警備の要となっていた。本陣とも呼ばれた郡代役所はしばらくして日和佐浦に移ったが、海上交通の要所としての地位には変りなく、重要な海上通行の折にもここが停泊地に定められることが多かった。明治の頃までは陸上交通が未発達であったこともあり、鞆港は京阪神への汽船も行き交い賑った。奥浦地区は旅行者のための旅館街もでき、維新後町の中心として発展したところである。
 漁村としての歴史も深く、しかしそれはこの町の素顔として営々と何百年も変わらなかった部分だろう。洋上で鰹や鰤などの漁に従事する者や、近海で鰯や鯵、飛魚などを漁る者もあって鰹節・干物・酒盗などにも加工され各地に売り捌かれた。明治9年の記録では漁船57とある。
 鞆浦の町は一方を海に、他方を丘に囲まれた穏やかな集落だ。漁村集落は一般的に迷路のような無秩序な路地が入組んでいることが多い中で、鞆浦では碁盤目のように規則的な町割がなされていることが特徴的だ。港から伸びる4本の路地が中心で、それらを結ぶ小路、山裾に向う道筋などで構成されており、それぞれ家屋が密集している。
 家々はこの地方独特のミセ造りと呼ばれる建物が多くを占め、その一番の特徴は付近でブッチョウと呼ばれる軒下の床几だ。折畳んである姿は目立たないものの、開けると縁台にもなり、漁具の手入れをする台ともなる。実際そこで昼寝をする老人や、坐って世間話をする婦人の姿も見かけた。ミセ造りは付近の他の町でも普通に見られるがこの鞆浦ではその密度が最も濃く、生活にも密着しているのを感じた。
 それ以外にも二階部分には凝った木製の手摺が構えられ、板壁や一部では軒下の持送りなど、意匠の統一が見られる。雑然と建て込んだ漁師町らしい佇まいを見せながらも、整然とした街路もあって連続性の高い見応えのある町並が展開していた。




奥浦の町並 鞆浦より歴史は新しいが所々に古い姿が残る 旅館建築もあった

 

訪問日:2007.08.14 TOP 町並INDEX