鰍沢の郷愁風景

山梨県鰍沢町<商業町・川港町> 地図
町並度 4 非俗化度 8 −富士川水運の拠点−




鰍沢の町並


 鰍沢町は山梨県の南部、いわゆる峡南地区の中心的な町として位置づけられている。県下中西部の川はこの付近で一本の富士川にまとまり、谷間を下って駿河湾に注いでいる。言い換えれば甲府盆地が途切れる位置ともなっており、ここは川運によって栄えてきた地だ。
 富士川水運の中心地としての役割は江戸初期から鉄道が開通する昭和初期まで長きにわたり、河口に近い岩淵(現静岡県富士市)との70km余りの舟運を司ってきた。
 中世から周辺の山村部の農産物や鯉・鯰・鰻などの漁獲物はこの鰍沢に集められ出荷されていたが、本格的に河岸として栄え始めたのは慶長12(1607)年以降富士川の開削工事が行われてからで、鰍沢河岸に所属する船の数はそれ以後常時100艘を下ることはなかった。年貢米の輸送にも利用され、それから発展し甲府藩をはじめとして信州諏訪藩領・松本藩領の米蔵もこの河岸に置かれている。反対に鰍沢に陸揚げされるのは内陸部では珍重される塩であった。そのため鰍沢河岸で扱われる荷を端的に表すのに「下げ米・上げ塩」という言葉がよく用いられた。鰍沢の塩蔵で荷づくろいされた塩は信州各地にも運ばれていった。
 その他下げ荷には木綿や生糸、穀類や煙草などがあり、上げ荷には海産物や反物、日常の諸雑貨などがあった。問屋も多数立地し商取引も盛んに行われた。
 
 







 
 また信仰の地として多くの人々の訪れた身延山へも鰍沢が拠点となり、江戸の人々は陸路甲州街道を辿ってここに泊り、翌朝道者船を仕立てて参詣するのを常としていた。明治44年に国鉄中央本線が開通、その後現在の身延線の前身である富士身延鉄道が開通し水運が廃れるまで、南甲州の中心地として大変賑っていた。
 河岸を仲立とした商業町の面影は淡いものとなっていた。国道140号線に沿い土蔵や町家建築が散在的に残るが、連続した箇所は少ない。そんな中でも観音開きの扉を従えた店蔵など繁栄の昔を想起させる建物が多少見られる。しかし多くは店舗に改装され、むしろ目立つのは看板建築といわれる胸壁を正面に立ち上げた洋風を模した建物であった。
 河岸の賑わいを町並に求めることは今後ますます困難な状況となることだろう。


訪問日:2009.01.02 TOP 町並INDEX